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【江戸時代を学ぶ】 貨幣制度と通貨の種類 〈25JKI00〉

慶長小判14557362_o1戸時代を舞台にした小説や時代劇を楽しむ上で、三つの基礎知識を知ることでその内容がより良く理解出来るとされているのだが、既に二つのポイント「時間の概念と時刻の呼び方」と「武士の禄(給与)」については解説記事を掲載した。今回はその三つ目のポイントである、「貨幣制度と通貨の種類」について解説を試みたい。

 

江戸時代の貨幣制度は現代などと比べてはるかに複雑であり、その理由は江戸幕府が貨幣の全国統一・管理統制を行う為に「三貨制度(さんかせいど、Tokugawa coinage)」と呼ばれる仕組みを導入したことにより起因したとされている。

この「三貨制度」は、金、銀、銅という原材料が異なる金属により製造された貨幣を用いて銭勘定をするものであり、単位の異なる各々の基本通貨が併行して流通していた、極めて複雑な貨幣制度のことである。

ちなみに、江戸幕府自体が公式に「三貨制度」に関する触書等を出してはいないとされるが、「三貨」という文言については、両替商の草間直方が刊行した貨幣制度に関する『三貨図彙』という書物に初見されるという。※『三貨図彙』とは別名を『古今貨幣図説』とも呼ばれる、全42巻(44巻とも)の日本最初の貨幣経済に関する史書である。著者は草間直方(通称=鴻池屋伊助)とされ、文化12年(1815年)の成立。金貨や銀貨、銭貨の鋳造と流通の歴史を図説入りで説いた書物で、殊に米価との対比が詳しく語られている。

 

さて、まず金貨についてだが、当時の金貨の基本通貨単位は「両(りょう)」であり、補助単位として1/4両にあたる「分(ぶ)」、更にその1/4分にあたる「朱(しゅ)」があり、この4進法の通貨単位は、江戸時代以前の戦国時代に武田信玄が鋳造を命じた甲斐国の領国貨幣である甲州金の通貨体系を踏襲したものであった。つまり金貨は、「両」という基本単位のもと「一両」=「四分」=「十六朱」という四進数で計算されていた貨幣制度である。

基本通貨は計数貨幣である金一両の小判とその1/4の量目の一分判であるが、元禄期には小判の1/8の二朱判が登場して、江戸時代の後期には小判に対し金の含有量が劣る、五両判や二分判、二朱判及び一朱判なども発行された。

ちなみに、有名な「慶長小判(けいちょうこばん)」とは江戸時代の初期、慶長6年(1601年)頃より発行されたとされる小判のことで、一両としての額面を持つ計数貨幣である。また慶長小判並びに「慶長一分判」を「慶長金(けいちょうきん)」と総称し、更には「慶長大判」をもこの「慶長金」に含めることもあるようだ。

また我国の金貨の歴史は、中世において東北地方を中心に砂金が採取されるようになると、砂金を目方(重さ)に応じて高額の取引に用いたのが流通の切っ掛けであったとされる。そして砂金を鎔融して吹金や練金と呼ばれる金錠として用いられるようになり、やがて(金の質を担保するために押し伸ばした)判金状のものが使用されるようになる。

戦国時代には大判の金貨が主流となり、これらは恩賞や贈答あるいは高額の借金を大判にして金で返すしきたりなど限定した用途に利用されていたが、徳川家康は1600年前後には、金の産出量の増加に加えて中国からの多くの金錠の輸入により金在庫の準備が成ったとして、より小額の額面で墨書での表記を極印に改めた、一般流通を目的とした小判型の金貨を発行することになる。

ちなみに大判は金一枚(四十四匁)を単位とし、上記の通り本来は恩賞や贈答などに用いられるものであり、本来通貨として一般に流通する目的のものではなかったが、稀に市場で取引される場合は相場に応じて価格評価されたようだ。

 

次に銀貨に関しては、量目不定の「丁銀」や「小玉銀」と、そして天秤で目方(めかた)を量って通用する秤量貨幣が基本通貨となっており、通貨単位は天秤による実測値、即ち質量の単位である「貫(かん)」や「匁(もんめ)」及び「分(ふん)」などが用いられていた。そして「銀1貫」は「銀1,000匁」となり、「銀1匁」は「銀10分」である。※1匁=3.75gである。

このような秤量貨幣は、実際の取引の際には切り分け(分割)が困難で実に不便であったとされるが、裸の「丁銀」は江戸時代初期には銀子貨幣として、上方(関西地区)では14匁、江戸(関東地方)では15匁の物がよく用いられたと伝わる。他には、500匁毎の単位で和紙に包まれた「包銀」というものが使用されたが、「小玉銀」は現実の取引においては携帯に便利な銀秤により計量されていたようである。

更に明和期に登場した「南鐐二朱銀」を皮切りに「一分銀」および「一朱銀」など、銀貨においても本来は金貨の単位であった「分」や「朱」を単位とする計数貨幣が発行されるようになった。これらは「金代わり通用の銀」あるいは「金称呼定位銀貨」などと言われているものだ。この計数銀貨の登場により、次第に「丁銀」および「小玉銀」の流通は衰退し、銀目取引の中心は手形や藩札などに移行していった。

銀貨に関しては、戦国時代の後半からは灰吹法の導入により石見銀山を始めとして全国各地で銀の産出量が大幅に増加し、この灰吹銀やそれに極印を打った極印銀が目方に応じた貨幣価値で取引されていた。また最大の海外貿易先国の中国において、主に銀貨が大口の取引に使用されていたことにより、我国側の堺や大坂の商人も銀貨での取引に応じていたとされる。

この様な背景から江戸幕府も、この上方の有力商人たちの意向を無視することが出来ず、金貨の流通と並行して既存の銀貨使用の体制を継続して貨幣制度を整備せざるを得なかったと考えられ、こうして幕府のお膝元である江戸(関東地方)では主に金貨が、天下の台所(日本経済の中心地)である大阪/上方(関西地区)では銀貨が中心的に用いられたようだ。

しかし銀は金と比べて不純物の混入率が高い為に加工が難しく、またその脆さから薄い延板や棒状にすると割れたりひびなどが入り易いことで、譲葉(ユズリハ)や海鼠(ナマコ)型の丁銀に成形されたものが非常に多かった。また恩賞品や贈答用には、四十三匁の銀塊が用いられたとも伝わっている。

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