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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -10》 長宗我部盛親 〈25JKI28〉

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長宗我部盛親の肖像画(蓮光寺蔵)

今回は、牢(浪)人五人衆のひとり、長宗我部宮内少輔盛親を取り上げることにする。四国の覇者、戦国大名長宗我部元親の四男であり、大阪城に馳せ集まった牢人の中でも家格は上位。しかしその大阪の陣での戦歴は、八尾の戦いを除くといま一つ「ぱっ」としない。またその最後も徳川方に捕えられ、六条河原で斬首されてしまう。

その人生は頑張っても頑張っても巧く事が運ばない、何だか哀れな感じもする人。どう見ても運命の女神に見放されていた様子だが・・・。しかし彼の御家再興に賭ける意気込みは「凄い」の一言。他の豊臣方の武将が華々しい死を選んで行く中、何としてでも生き延びようとした不屈の闘志には感嘆を禁じえない・・・。

 

長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)は、長宗我部元親の四男で長宗我部家の第22代当主。天正3年(1575年)に生まれたとされ、幼名は千熊丸という。六尺(約180cm)豊かな偉丈夫であったとされ、父や兄(信親)同様に当時としては大男の部類であった。その性格は幼少の頃から傲慢で短気、家督を継いでからも家臣に対し常に厳しい態度で接したとされ、故に家内の人望は薄かったとされる。(見方を変えれば、自負心が強く規律に厳しい人であったとも考えられるが・・・)

長宗我部家は(あくまで伝承だが)秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのがその遠祖だとされており、聖徳太子の側近であった秦河勝(秦氏の族長であり、富裕な商人として朝廷の財政を支えた人物)を祖先に持つ有力な渡来民族の名家とされるのだ。そのため泰氏の後裔を称したが、応仁の乱の頃には 土佐国長岡郡の国人として、土佐国の有力な国衆七家(土佐七雄)の一つに数えられるまでに成長した。家紋は「七つ酢漿草(かたばみ)」または「帆懸船」。また室町時代以降、通字には「親」を用いることが多かった。

戦国時代に入った頃から勢力を更に拡大し、盛親の父親である元親が他の諸勢力(近隣の本山氏や安芸氏など)を攻略そして臣従化して、遂に天正二年(1574年)には土佐一条氏(一条兼定)を豊後に追って土佐一国を切り従えた。こうして戦国大名となった元親は、その後も勢力を伸ばしてほぼ四国の統一にまで近づいたが、時すでに遅く、勃興する羽柴秀吉の四国征伐軍に敗れ、土佐一国に減封された後に豊臣政権に従う大名となる。そして以降、元親率いる長宗我部勢は、秀吉の命で九州征伐や小田原征伐、また文禄・慶長の役にと転戦・参陣した。

 

天正14年(1586年)の九州征伐における戸次川の戦いで長兄で継嗣の長宗我部信親が戦死すると、盛親は、次兄の(豊臣秀吉が推薦する)香川親和や三男の津野親忠を推す家臣団との間で家督相続をめぐって争うこととなるが、父である元親の強硬な後押しを受けて、天正16年(1588年)に長宗我部家の跡継ぎに指名された。

この家督相続については、長幼の序を守るべきとする有力な一門衆の吉良親実(元親の甥)や比江山親興(元親の従兄弟)をはじめとして反対者が多かったという。盛親はその性格から多くの家臣にも疎んじられていたとされるが、彼を推戴する一派は盛親の家督襲名後に反対派を一掃、多くを粛清してしまう。また次男の親和は憤死(毒殺説あり)し、三男の親忠は後に元親により幽閉されてしまう。

また元親が、未だ少年である千熊丸を世子(世嗣ぎ)とした理由は、兄の親和と親忠が既に他の家(香川家・津野家)を継いでいたことや、何よりも溺愛していた信親の娘と娶わせる上で年齢的に盛親(千熊丸)が最もバランスが良かったからでは、と推測している歴史学者もいる。また他の理由には、盛親の風貌と体格が信親に非常に似ていたからではないか、という説もある。

しかし、この跡目争いでの父親の強引な決定により、かなり家中が混乱し互いに反目したとされている。そして粛清により長宗我部家が人材不足に陥り、またその戦力が低下してしまうことへの影響は大きかっただろう。

ちなみにこの時、盛親を推した久武親直(長宗我部氏の重臣)は、後にライバルの有能な家臣をことごとく蹴落とし、関ヶ原の敗戦直後には盛親の兄の津野親忠を殺すように(主人・盛親へ)進言したり、更には長宗我部家の改易後にはさっさと加藤清正に仕えた変節ぶりにより、長宗我部家の滅亡の元凶あるいは稀代の奸臣ともされている。

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