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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -8》 青木一重と伊東長次、そして北川宣勝と山川賢信 〈25JKI28〉

青木家家紋101 126355887182816202015_IMG_2651今回は、なぜか許されて戦後も生きながらえた4名の武将を紹介しよう。特に青木一重は一時期は徳川家に仕え格別な戦功も挙げており、また大阪の陣の際にも弟をはじめ複数の縁者が徳川家に属しており、七手組の組頭ながらどちらかと言えば徳川シンパだったと思われる。そして伊東長次は一重以上に明確な徳川方のスパイであったのだろうとみられる。彼は配下を通じて長期間にわたり情報を流し続けた模様だ・・・。

更に北川宣勝と山川賢信は、元は伊達家の家臣で同僚の間柄だったのだが、(伊達政宗の命を受けて大坂方に潜入し)当初から京都所司代の板倉勝重を通じて家康の間諜として活動していたのではなかろうか。勿論、戦後において、その罪軽微として普通に許された者も数多くいたであろうから、皆が皆、家康の手下であった訳ではないとも考えられるが・・・。

 

青木一重

青木一重(あおき かずしげ)は、大阪の陣の後、摂津麻田藩の初代藩主となる。元来、青木氏は美濃国の豪族(武蔵七党の丹党青木氏の後裔ともされているが、諸説がある)であり、戦国時代中頃までは土岐氏や斎藤氏に仕え、やがて織田家に仕官したと云われる。一重は青木重直の長男で天文20年(1551年)の生まれとされ、従五位下で民部少輔。名は忠助、所右衛門であるが、諱は重通とも伝わる。子は無く、養子に青木正重、青木重兼(弟である青木可重の長男)がいる。

初め今川氏真の家臣であったが、今川家が滅亡すると徳川家康の家臣となり、元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉家の豪将であった真柄十郎左衛門直隆(諸説あり、相手は真柄隆基とも)を討ち取って勇名を馳せたとされる。

尚、この時に使用した刀は、 美濃の名工、関孫六兼元が鍛えたという「青木兼元」であり、「真柄斬り」という異名もある、刃長2尺3寸3分で反り4分強の業物である。

丹羽長秀に仕えた時期もあるようだが、その後、小牧・長久手の戦いの後に豊臣秀吉の黄母衣衆となった。天正13年(1585年)以降からは摂津国豊島郡や備中国、伊予国などで合計1万石の領主となった。1587年の九州征伐にも従軍している。

天正14年(1586年)には従五位下民部少輔に任官。秀吉の没後には豊臣秀頼の家臣となり、速水守久や伊東長実らと共に秀頼の親衛隊である七手組の組頭を拝命した。

大坂冬の陣では大坂城の二ノ丸追手口などの守将となり、城南方面では真田信繁が守る真田丸の激戦にも参加したが、夏の陣の前に秀頼の使者として徳川家康を訪れた際に(駿府からの帰り、京で所司代の板倉伊賀守勝重に捕らえられたという)、弟の可直(当時は徳川家の旗本)を処断すると脅されて徳川方に抑留され、一重は夏の陣の戦いには参陣できなくなってしまう。

豊臣家の滅亡後は剃髪し隠棲(宗佐と名乗った)していたが、元和元年(1615年)に家康の命により摂津麻田に12,000石(弟の可重に2,000石を分与)を与えられた。そして幕府への配慮からか、夏の陣で一重の代わりに青木勢の采配を振るっていた養子の左衛門正重(一重の外甥で、斉藤義龍の家臣小寺宮内右衛門則頼の子とも伝わる)を廃嫡とし、新たに可直の子である甲斐守重兼を養子に迎え嫡子とした。一重は寛永5年(1628年)の8月9日に享年77歳で亡くなったとされる。法名は梅隣院殿革屋令曇大居士。

因みに麻田藩は、摂津国豊島郡麻田村、現在の豊中市蛍池に陣屋を構え幕末まで続いた。

 

伊東長次

次に伊東長次(いとう ながつぐ)だが 尾張国岩倉の国人であった伊東長久の長男で諱は長実とも言い、官名は丹後守であった。

長次の先祖は藤原南家の末裔で伊豆に住み着いて伊東氏を名乗り、三大仇討ちで有名な曾我兄弟(彼ら兄弟は伊東祐親の孫で、父の河津祐泰の仇であった祐泰の従兄弟の工藤祐経を討つが、この仇討ち自体が同族の内紛ともいえる)は同じ伊東一族であった。また更に、この伊東氏は日向国飫肥藩の伊東氏と遠祖を同じとするという説もある。

誕生は永禄3年(1560年)頃との説があるが、最初、父の長久が織田信長に仕え、後に豊臣秀吉の配下となる。長次も1573年頃には羽柴秀吉に仕えており、播磨国三木での合戦(別所攻め)で戦功を挙げて織田信長から脇差と熨斗附を賜っている。その後、豊臣秀吉の黄母衣衆となり、天正18年(1590年)の小田原征伐では山中城へ一番乗りを果たすという輝かしい功により、天正19年(1591年)に備中川辺1万石を与えられた。また文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では名護屋城に駐屯した。

秀吉没後は秀頼に仕え、大坂の陣では七手組頭の一人として3,000名程の手勢を引き連れて鴫野の戦いや天王寺・岡山での決戦に従軍したとされる。大坂城が落城すると徳川方の兵に阻まれ帰城を諦めて高野山に逃れ、そこで秀頼の死を知り自害しようとしたが意外にも家康に赦され、備中川辺の岡田藩1万300石の大名に復帰する。晩年に剃髪し宗徳と号し寛永6年(1629年)2月17日に享年70歳で没した。遺体は武蔵の高林寺に葬られた。また家督は次男の長昌が継いだ。

高野山で赦された理由としては、長次は関ヶ原の合戦の前夜において、石田三成の挙兵を慶長5年(1600年)6月16日にはいち早く徳川家康に報告しており、この内報の功を認められて許されたとされているのだが、この話はどうも怪しい。15年も前の功を理由に、また三成挙兵の報など彼以外にも数多くの者が知らせていたというのに・・・。

大阪城が落城し、秀頼と淀殿の母子が自害した敗戦確実の日まで豊臣方にありながら、 その後赦免されて、幕末まで江戸時代の260年間を通じて(小なりとは云え)大名であり続けた希有なる家となったのが、青木一重を藩祖とする麻田藩と伊東長次の岡田藩なのだ。

何故彼らは、秀頼の親衛隊ともいえる七手組の組頭の要職にありながら、豊臣家の滅亡後も赦されて命を永らえたのだろうか。ましてや最下級ではありながら、万石以上の大名クラスとして取り立てられたのだろうか。疑いは尽きない。

『老士談録』によると、京都所司代の板倉勝重は臣下の朝比奈義次を長次の配下として大阪城に潜り込ませて 城中評議の内容を尽く報告させたとある。そしてこのことは伊東長次も承知のことであり、彼は朝比奈義次を連絡役として徳川方の諜報活動に加担していたのであろうと思われるのだ。

伊東長次が大名として存続することを許されたのは、長年にわたり徳川家の諜報活動を行っていたからに違いないと思うのだが、如何だろうか・・・。

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