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【大阪の陣・外伝】 徳川家臣団ヤンチャ一番、水野勝成で御座る!! 〈25JKI28〉 

水野勝成 肖像画(賢忠寺所蔵)

同じ【大阪の陣・外伝】シリーズの神保相茂に関する記事でも触れた水野勝成だが、当時の徳川家臣団の中でもヤンチャ一番の暴れん坊と云えば、間違いなくこの人であろう。

徳川家にも幹部クラスの大物豪将・猛将(本多忠勝や井伊直政など)は数多く存在したが、中堅クラス(後には堂々たる幹部であるが…)の暴れん坊ではやはり彼が一番自由気儘な存在だったとみえるが、さて実際のところはどうだったのだろう。

筆者は、そこには徳川家に近い母方の親戚筋(勝成は家康の従兄弟)ではあるが、さりとて初めのうちは徳川家べったりでもなかった水野家独特の気風が大きく影響していると思われるが、如何であろうか…。

【大阪の陣・外伝】 伊達政宗の犯罪。嗚呼、無念の神保相茂隊全滅!!…はこちらから

 

水野勝成(みずの かつなり)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将で大名である。三河刈谷藩主から大和郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となった人物で、幼名は国松、通称は藤十郎ないし六左衛門と名乗った。母は都筑右京進吉豊の娘である。正室は良樹院(三村家親の娘・於珊)とされるが、側室の香源院(於登久、勝俊の生母)が最初の正室で良樹院は後妻との見方もある。

官位は日向守(従五位下から従四位下・贈従三位)である。永禄7年(1564年)に水野忠重(水野信元の弟で徳川家康の叔父)の子として三河国刈谷に生まれとされるが、時期や場所については異説も多い。初陣は天正7年(1579年)の遠江高天神城攻めで、忠重に従って出陣したとされる。

天正8年(1580年)には、父の忠重が織田信長の下で刈谷・緒川や北伊勢に所領(約10万石)を持つ大名となり、この時期、勝成は出城の奥田城や細目城の管理を任されていたとも伝わる。尚、水野忠重は徳川家康に仕えた時期もあるが、織田信長や信長の死後は織田信雄に属し、その後は豊臣秀吉の家臣であった。やがて秀吉が亡くなると、再び家康に仕えたが、関ヶ原の合戦の直前に西軍方の加賀井重望に池鯉鮒で暗殺されてしまった。

一方、勝成は天正10年(1582年)に父の許を離れ徳川家康の配下となり、天正壬午の乱・黒駒合戦で手柄を挙げる。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、一旦は織田信雄の与力となっていた父の忠重に従ったが、この際に父親と仲違いをして以後は直接、家康のもとで働いた。同年の蟹江城合戦でも家康の旗本衆と行動を共にしていたが、自らを讒訴した忠重の家来を斬り殺した事で父の逆鱗に触れて勘当、奉公構(ほうこうかまい)とされた。

ちなみにこの時、進退窮まった勝成が家康に父親との仲介を頼むが忠重がどうしても許さなかった為に、「しばらく目立たないようにしておく様に」との家康の命で牢人したとの説もある。

以後の勝成は、忠重の追及から逃れる為に美濃・尾張などを転々としたあげくに京都に流れ着くが、そこでも放蕩無頼な生活を送っていた。天正13年(1585年)、織田信雄の斡旋で秀吉配下となり紀州雑賀攻めに加わる。更に仙石秀久に従い四国征伐にも参加して秀吉から禄(摂津国豊島郡内にて728石)を賜るが、その後間もなく再び出奔、秀吉の追手を避けて中国地方へと逃亡しては“六左衛門”と名乗ったと云う。但し、この時の秀吉から離反した詳しい経緯は不明である。

その後、天正15年(1587年)に肥後の領主であった佐々成政に1,000石で仕官し、肥後国人一揆では武功を挙げたが、佐々家改易後は黒田(官兵衛)孝高に仕えた。しかし再び黒田家からも離れて天正16年(1588年)には今度は小西行長に1,000石で仕官する。だがその後、行長の元を去り加藤清正、次いで立花宗茂のもとに身を寄せたものの、いずれも間もなく出奔してしまう。

この後、諸国を放浪した末に備中国の成羽(鶴首)城主であった三村親成(みむら ちかしげ)の食客となり、そこで妻(於登久、後の側室)を娶り男子(後の勝俊)を儲けた。

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