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【大阪の陣・外伝】 徳川家臣団ヤンチャ一番、水野勝成で御座る!! 〈25JKI28〉 

やがて慶長3年(1598年)3月、勝成は伏見城で徳川家康に謁見し、翌慶長4年(1599年)になると再々度、徳川家康の家臣団に加わる。そして家康の計らいにより山岡景友が仲介の労を執って父・忠重と15年ぶりに和解を果たし勘当を解かれたのだったが、その直後に前述の通り忠重が加賀井重望に殺害されると、三河国刈谷領(3万石)の家督を相続した。また関ヶ原の合戦では大垣城の攻城戦で活躍し開城に成功した。そして翌年の慶長6年(1601年)5月11日付けで従五位下・日向守に叙任されている。

ちなみに当時、官名の“日向守”は主君であった信長に背いて殺害に及んだ明智光秀の官職であった為に、光秀以降はこれを名乗る者がいなかったが、(傾奇者の)勝成は特にその事を気にすることもなく、逆に三成の武功に肖(あやか)りたいと“日向守”の官職を欲したとさえ云われる。これが後に、その勇猛・剛将ぶりから『鬼日向』と渾名される由縁となった。

その後、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣には子の勝重(後の勝俊)を伴い参陣した。家康の命で豊臣方の博労淵(ばくろうぶち)砦の偵察を永井直勝と共に実施し、攻略の為の仕寄(攻城側の防備施設・構築物)を狗子島に築く(11月28日に完成)が、勝成たちに先んじて手柄を挙げようとした蜂須賀至鎮勢が翌朝に博労淵砦を攻め落としてしまった(『博労淵の戦い』)。

また同じ博労淵の戦いにおいて、森忠政の軍勢が天満川を渡河して戦闘に参加せずに傍観していた件を調査・監察に赴く。実際には軍監の城昌茂の制止命令に従ったまでであったことが判明し、城は罷免(後に改易)され、以後は勝成が軍監として忠政に同行している。だが、この冬の陣では住吉口の家康の陣所の後備等を担ったりと、他にはめざましい活躍をすることはなかった。

だが翌年の夏の陣では、家康から大和口方面(大和方面部隊)の先手(先鋒)大将という重要な役に指名される。しかし勝成の猪突猛進型の性格をよく弁えていた家康は、この任命に先立って「今や一軍の将であるからには、昔の様に自らが軍勢の先頭に立って戦闘に加わってはならない」と厳しく命じたのだった…。

その後、京都を進発した勝成の軍勢は山城国の長池から奈良へと向かい豊臣方の大野治房らの奈良焼討ちを阻止した(『郡山城の戦い』)。また既にこの頃から、豊臣方では勝成のことを『鬼日向』と呼んではその武略を恐れていた様で、大野治房の軍勢は勝成の馬印を見ただけで恐れをなして退却したとも伝わる。

以後、勝成は奈良の街から法隆寺を経て河内国府へと軍勢を進め、松平忠輝や松平忠明、本多忠政、伊達政宗らの諸隊と合流したが、これらの部隊は4月28日以後も同地域での在陣を継続していた。

5月4日になって勝成は、徳川秀忠に伏見へと呼び戻されて奈良救援の功として黄金50枚の恩賞を授けられたが、直後に彼は折り返し夜を徹して奈良方面へと移動、翌5日には堀直寄・松倉重政・奥田忠次・丹羽氏信、並びに中山照守や村瀬重治らを率いて進発、同日午後4時頃には国分に到着して宿営したが、その兵数は約3,800であったとされる。

同月6日、勝成の軍勢は河内国志紀郡の道明寺村付近において後藤基次勢と交戦する(『道明寺の戦い』)。勝成は前夜の内に小松山へ登り、その地形を確認していた。そして彼はこの小松山に敵軍を誘い込んで撃破する作戦を企図、現実の戦闘もその通りに進んだ。そしてここで勝成は先の家康の命令を無視して、自ら一番槍を挙げる働きで後藤基次の軍勢を撃退した。

ちなみに勝成勢に敗れて下山した後藤基次の残存部隊は、伊達政宗配下の片倉重長率いる鉄砲隊などに突撃を敢行、基次も乱戦の中に討死したとされる。

次いで、小松山で後藤基次隊を打ち破った勝成勢は誉田村付近に進軍、先ずは井上時利・槙島重利らと交戦し、更にその後も本多忠政や伊達政宗の部隊と共に豊臣方の豪将・薄田兼相の軍勢と戦い、勝成の家臣であった河村重長が兼相を討ち取った(異説も多い)とされる(『誉田の戦い』)。

そこに豊臣方の後詰部隊である真田信繁・毛利勝永・明石全登や大野治長らの軍勢が到着した為にこれらと対峙する形となった。そこで勝成は、果敢(無謀?)にも直ちに戦端を開きたいので協力を望む旨を隣陣の味方・伊達政宗に幾度も申し入れるが、政宗は弾薬不足や死傷者の多さを理由に再三にわたりこれを拒否したのだった。それでも諦めずに要請を繰り返す勝成に困り果てた政宗は、最終的には自ら勝成の許を訪れて、その申し入れを断ったとされる。

その結果、この戦線での徳川方と豊臣方の諸隊は睨み合い・膠着状態となり、暫くしてから豊臣方が大坂城へと撤退を開始した事で、この方面での一連の合戦はようやく終結を迎えた。

尚、『水野勝成覚書』によると、この時の水野勝成勢の陣立ては、先鋒に勝成、二番手に中山勘解由、三番手が水野美作守勝重、四番手は村瀬左馬となっている。

 

翌7日の天王寺・岡山での最終決戦では、徳川方の大和方面部隊は家康の命により住吉へと進出していた。そして天王寺口において、真田信繁の赤備え部隊が家康の本陣・旗本衆へと攻め込んで、家康を絶体絶命の窮地に陥れた時、水野勝成勢は天王寺へと駆けつけて松平忠直の家臣の一部と共に茶臼山の豊臣家の軍勢を撃破・駆逐して真田隊の後方路の遮断に成功した。これで前進の勢いを失った真田勢は、松平忠直や松平忠明、本多忠政らの軍勢に反撃されて、ここに真田の乾坤一擲の一大攻勢は頓挫した。

更にそこに勝成の軍勢から600名余りの兵力が派出されて勝愛院の西方から真田勢に向けて打ち掛かり、その結果、三方を敵に囲まれた信繁の部隊は遂に壊滅したのだった。尚、この時、信繁与力の大谷吉治は勝成勢に討たれたとの記録もある。

またその後、越前松平藩の兵の一部が明石全登の軍勢に圧されて勝成の部隊へと逃げ込んで来たが、勝成は敗走して来た忠直の兵を大音声で叱咤しながら彼らを押し止め、自らも槍を手にして前線へと進み出ては奮戦、味方の戦線を立ち直らせて全登の軍勢の撃退に成功したとされる。しかもこの時、勝成自身も2つの首級を挙げ、また明石全登を勝成の家臣の汀三右衛門が討ち取ったともされている(異説あり)。

そしてその後、勝成勢は大坂城内に攻め入って首級97を討ち取り、また桜門に一番旗を立てる功名を得たのだった。

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