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【名刀伝説】数珠丸恒次〈1345JKI07〉

今回の【名刀伝説】は、「数珠丸恒次(じゅずまる つねつぐ)」だ。この刀は、重要文化財に指定されており、天下五剣の一つに数えられている名物であるが、長年、同じ場所に秘蔵されていた為か、他の天下五剣に比べてみても特に目覚ましい逸話はない。また仏法に深く関わる刀として、殺生に繋がる武勇伝もない一振りである。

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青江恒次が打ち鍛えた名刀とされる。刃長は二尺七寸七分(83.9cm)、反りは一寸弱(3cm)で、元幅が一寸三分強(4.0cm)、先幅六分六厘(2.0cm)で茎の長さは七寸九分五厘(24.1cm)。形状は、鎬造、庵棟、細身で腰反高く、小峰で踏張りがある。鍛えは小板目で肌よくつみ、乱れ映り立ち地沸つく。刃文は直刃に小足入り、帽子は細くかけ出す。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目切で目釘孔は一つ、佩表、鎺下棟寄りにやや太鏨の「恒次」の二字銘が切られており、現在は重要文化財として兵庫県尼崎市の本興寺の所蔵となっている。※刃長(81.1cm)など諸説あり、元幅一寸二厘(3.1cm)、先幅五分九厘(1.8cm)との資料もある。

作刀者の青江恒次は生没年不詳の平安時代後期の刀工。備中の青江一門の内、保安年間からから暦仁年間(1120年~1239年頃)に活躍した古青江派と称される刀工集団の一人だとされ、備前守の受領名を下賜されている。古青江一門を創始した父の守次の後を継いだ三兄弟の次男で、兄は貞次、弟は次家とされ、三兄弟とも後鳥羽上皇の御番鍛冶を勤めたという。※恒次は、御番鍛冶12人説では五月番である。

しかし数珠丸の作刀者は次代(鎌倉時代)の恒次との説もあり、その彼は建長年間(1249年から1256年まで)に活動していた人物であるとされる。但し、その作刀の特徴(作風、銘の位置、茎の鑢仕上など)は古青江派とは異なる点が多く、刀剣学者の佐藤寒山などによると、ほぼ同時代に活躍した(末)古備前派の備前恒次(びぜんつねつぐ)の作ではないか、との説もあるのだ。また、土浦藩主土屋相模守子爵家にも、銘「恒次」とある太刀が残されている。

 

この太刀が日蓮聖(上)人(立正大師)の手に渡ったのは、聖人が文永8年(1271年)に佐渡へ流罪となり、文永11年(1274年)の春に赦免となった後、初めて身延山に登り久遠寺を開いた際に、ある大檀那(勢力のある有力な檀家・支持者・パトロン)から「山中には野党・山賊の類が多いから」と、護身用として寄進されたものだという。「享保名物帳」の享保8年本によると、「法主大上人之御太刀成ト云」とされており、日蓮聖人の愛刀と伝わる。

「諸家名剣集」には、「私記ニ曰、昔日蓮上人甲州身延山開基之節山中盗賊有之故自身衛護之為にとて大檀那某此太刀名剣成る故に上人に寄附す。上人登山之時杖に突き登山有けるとなり。故に今において当山の宝物と成る。」と記されている。

その刀の気高い美しさに魅了された聖人は、その後、これを「破邪顕正(はじゃけんしょう)の剣」として、柄に数珠を巻き付けて持ち歩いたとされ、「数珠丸」の名はこれに由来するとされる。

甲州身延山の地や仏堂などを寄進したのが日蓮聖人に帰依した南部(波木井)実長であることから、この太刀を寄進したのも実長とする説が有力であるが、聖人が身延山に入山する3ケ月ほど前、同じく聖人を支援していた鎌倉幕府の有力者、北条弥源太が大小二振りの刀を寄進したとされる。※同時に納められた小刀は、久国作の短刀とされている。

その時の弥源太に対する聖人の御書・礼状に、「~又御祈祷のために御太刀同く刀あはせて二つ送り給はて候、此の太刀はしかるべきかぢ・作り候かと覚へ候、あまくに或は鬼きり或はやつるぎ・異朝には・かむしやうばくやが剣に争でか・ことなるべきや・此れを法華経にまいらせ給う、殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし、譬えば鬼の道心をおこしたらんが如し、あら不思議や不思議や、後生には此の刀を・つえとたのみ給うべし~」(弥源太殿御返事)とあり、その際の大刀が数珠丸ではないかとの説もあるが、弥源太が御供養申し上げた太刀は「三條小鍛冶宗近」であるとするのが、昨今の定説である。

※【弥源太殿御返事の解説】「~また御祈祷のために太刀と刀と合わせて二振をお送り頂きましたが、この太刀は相当(立派)な刀鍛冶が作ったものと思われます。我国の「天国」、あるいは「鬼切」あるいは「八剣」、異国の「干将」・「寞耶」の剣などと同じく(異なることなく)素晴らしいものです。これを法華経(御本尊)に供養されたので、弥源太殿がお持ちの時は(人殺しの為の)悪の刀であったものが、今は仏前にあり善の刀となりました。これは例えば鬼が道心を発したようなもので、大変、不思議なことですが、今後はこの刀を仏道を歩む上での杖としましょう~」

 

こうして日蓮聖人は、この太刀を名だたる名刀や宝剣に勝るとも劣らない刀であると褒め称えているが、宗教上、古来より刀剣は、護身用の武器以上に祈祷のための仏・神具、ご本尊・神体に捧げる宝剣という性格が強かったと考えられる。日蓮宗だけでなく多くの仏教宗派において、また仏教以外の神道などにおいても、刀の供養・奉納は有力信者の重要な役割であった。※日蓮の葬列には、太刀持ちも加わっていたとの記録が残っているという。

日蓮聖人が遷化(せんげ/高僧が亡くなること)すると、数珠丸は聖人の「中啓」(ちゅうけい/折り畳んでいながら上端が半ば啓く扇、檜扇に次ぐ儀礼の具)や「袈裟」と並んで「三遺品」に数えられ、永らく身延山久遠寺が所蔵、大切に保管していた。

江戸時代になって、本阿弥光悦の孫で日蓮宗の信者だった本阿弥光甫(空中斎)が、拵えを蓮花を紋にした四分一すり剥がしの金具付きにして奉納したとされ、「享保名物帳」によれば「法物の太刀也。光甫物数寄の拵、蓮華を紋にして、四分一すりはがし也」とある。但し、現存するものには別の拵がついている。

その後の数珠丸の所在については幾つかの説があり、寛永年間の末頃(1645年まで)には徳川御三家の紀州家に伝わったとの説もあるが、本阿弥光甫が拵えを寄進したことが記されている「享保名物帳」でも、未だ所有者は紀州家とはなっていない。また紀州家の祖、徳川頼宣の生母のお万の方(養珠院)が日蓮宗の有力信者(日遠に帰依していた)だったとは言え、寺宝「三遺品」の一つである数珠丸をそう簡単に紀州家に託したとは考え難い。

また、享保年間(1716年~1736年)以降になると、数珠丸は久遠寺から姿を消してしまったとの説もある。原因は明らかではないが、盗難か不埒な僧侶の仏宝の横流しが原因だろうとされている。

結局、時期は不明確だが、明治維新後の早い時期、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中で代々の仏宝を護るために、数珠丸は紀州家に持ち込まれたか、引き取られたのだとも考えられている。

 

その後の大正9年10月、宮内庁の刀剣御用掛の杉原祥造氏(兵庫県尼崎市出身)が、某華族が競売に出している数珠丸を発見し私財を投じて買い取ったという。そしてこの事を各新聞社を通じて大々的に報じるとともに、数珠丸を久遠寺に返還しようとしたが、久遠寺側はこの数珠丸を贋作として受け取りを拒んでしまう。

そこで杉原氏は自宅の近辺にあった日蓮宗本門派の尼崎本興寺と相談し、大阪の篤信者である紙問屋の北風熊七氏から1万円(当時)の寄進を得て、大正11年1月に本興寺に数珠丸を奉納したという経緯がある。

以後、大正11年には文部省告示第368号により国宝(旧国宝)に指定され、戦後の昭和25年4月13日には重要文化財保護法により改めて重要文化財となったが、現在も尼崎本興寺にて保管されている。

-終-

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