Browse By

【歴史ミステリー】 江戸隠密界のスターたち(2) 奥の細道 松尾芭蕉と河合曾良 〈2316JKI00〉

細道1bashoutosora『奥の細道』で有名な松尾芭蕉は、江戸時代前期の俳諧師である。

しかし、俳諧師というのは世を欺く仮の姿であり、忍者として公儀隠密の任務を遂行する為の隠れ蓑として、『奥の細道』紀行の旅(東北地方探索?)に出たのではないかという説もある。

しかし、筆者は少しばかり違った説を唱えたいのだが・・・。

『奥の細道』と松尾芭蕉隠密説

松尾芭蕉は寛永21年(1644年)に生まれ、元禄7年10月12日(1694年11月28日)に没した。

江戸時代前期の俳諧師で、現在の三重県伊賀市の出身。幼名は金作。通称は甚七郎または甚四郎。名は忠右衛門宗房という。史上最高の俳諧師の一人とされ、「蕉風」と呼ばれる自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現した、芸術性の極めて高い句風を確立した。

後世には、「俳聖」として世界的にも知られることになる。俳号は初め実名の宗房を使い、次いで桃青、芭蕉と改めた。北村季吟の門下で貞門派を学び、江戸では談林派に感化された。

芭蕉が、河合曾良を伴い江戸から東北・北陸地方を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文に句集『奥の細道』がある。「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」の冒頭が有名な、簡潔な文章と情緒豊かな句で記した名作紀行文だ。

芭蕉の最期も旅の途中であった。大坂御堂筋にあった花屋仁左衛門の貸屋敷で、『旅に病んで夢は枯野をかけ廻る』という句を残して客死した。享年51歳。

生前の本人の希望から、弟子たちの手で大津膳所の義仲寺の木曾義仲の墓の隣に葬られた。芭蕉の命日は「時雨忌」といわれ、毎年、11月の第2土曜日に法要が営まれている。

 

松尾芭蕉は元禄2年(1689年)3月27日(現在の5月16日)に江戸を立ち、門弟の河合曾良と共に、奥州へ向けた旅に出立した。

その後、北陸路を経て9月には美濃(岐阜)の大垣に辿り着いた。この旅で著わしたのが有名な紀行文である『奥の細道』である。

しかしこの旅は、実は公儀の隠密活動であり、東北地方、例えば仙台伊達藩の情報を探索する為、すなわち、スパイ活動の実施を目的としたものであったとの説がある。

 

【隠密の根拠】
伊賀者

先ずは芭蕉の出身地が伊賀上野であること、つまり芭蕉が忍者で有名な地域の生まれであることである。松尾与左衛門の次男として生まれ、彼の生家は無足人と呼ばれた元郷士の農家であり、その先祖の多くが忍術を体得した伊賀の地侍であった。

諸説あるが、芭蕉は寛文2年(1662年)に藤堂家の侍大将・藤堂新七郎良清の子である良忠(俳号は蝉吟)に仕えた。この時の主家である藤堂家は服部半蔵の縁戚であったので、そのことも忍者説を後押しするものである。

芭蕉はこの頃、主君の良忠(蝉吟)と共に俳諧を学んだ。 しかし、彼が二十三歳の時、良忠が病没したので致仕して、その後は専ら俳諧の道を歩んだ。

俳諧師

俳諧というものは中世の連歌から発展したものである。そして中世以来、連歌師たちは諸国を遍歴しながら歌を詠み、特に戦国時代に入ると、しばしば大名などの依頼で他家に出入りしたり、各地を渡り歩きながら情報収集の任にあたり、諜報活動を担わされた。室町時代後期の連歌師柴屋軒宗長などが、その有名な例である。

江戸期の俳諧師も同様に各地を自由に旅していたことから、隠密として情報収集活動をしていたのではないかと言われている。自由に旅行することが困難であった江戸時代の前期に、芭蕉も、その生涯で幾度となく、遠国への旅に出かけているのだ。

健脚

記録によると、芭蕉の歩く速度は異様に速かったことになる。『奥の細道』の旅程は全体でおよそ600里(約2,400km)にものぼり、1日平均10数里(45km以上)を踏破したことになり、険しい山道などもたくさんあった。当時40代半ばの年齢としては大変な健脚であり、また異常なスピードとも入える。

次のページへ》  


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。