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【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (前) 〈3JKI07〉

Russland-Nord, Erich von Manstein, Brandenberger

エーリヒ・ブランデンベルガー少将とマンシュタイン(1941年6月)

【古今東西名将列伝】の連載第二回目、今回も第二次世界大戦(W.W.Ⅱ)で活躍した独軍の名将を取り上げる。その名は、フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン(Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein)という、大変長い名前の将軍閣下である。

マンシュタインの父親はプロセインの軍人で砲兵大将のフォン・レヴィンスキーであったが、プロセインの名門マンシュタイン家の養子に入った為、このような長い名前となった。

 

フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー(後のマンシュタイン)は、プロイセン王国の首都ベルリンにて1887年11月24日に生まれた。父はエドゥアルト・フォン・レヴィンスキー(Eduard von Lewinski)将軍、母は歩兵大将クルト・フォン・シュペルリンク(Kurt von Sperling)の娘であったヘレーネであり、二人は子宝に恵まれてエーリッヒはなんと第10子であった。また父の家系フォン・レヴィンスキー家も母の実家フォン・シュペルリンク家も共にプロイセンの名門貴族であり、男子は代々が軍人となる家柄だった。

そして、母ヘレーネの妹ヘートヴィヒと夫のゲオルク・フォン・マンシュタイン(Georg von Manstein)中将の間には子供が無く、エーリッヒは生まれる以前から彼らの養子となることに決められていた。こうしてマンシュタイン家の養子となった彼は、両家の名を併せ持つ二重姓の長い名前を有する軍人となったのだ。

しかもマンシュタイン家の祖先は、14世紀から続くプロイセンの古貴族の一員であり、父祖は17世紀のフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の時代から代々軍人に就いていた。

このような名門軍人の家柄出身であることに加え、母の別妹のゲルトルートの結婚相手がパウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)元帥であるという強力な縁故が、マンシュタインのその後の軍人としての出世を誕生時から約束していたのである。

 

こうしてベルリンで生まれたマンシュタインだったが、父の任地に従ってドイツ各地を転々としながら育った。1896年から1900年までは、父の配属先であるストラスブルク(Straßburg、当時はプロイセン領だが、現在はフランス領のストラスブール)の小学校に通っている。

1900年には13歳でプレーン(Plön)の陸軍幼年学校に入学し、その後、ベルリンのリヒターフェルデ(Lichterfelde)にあった中央幼年士官学校(Preußische Hauptkadettenanstalt)に入校した。成績優秀であったとされるマンシュタインは、在校中、1905年6月のヴィルヘルム(Wilhelm von Preußen)皇太子の結婚式に際してはロシアのウラジーミル大公女の従者役を務めたとされ、その翌年の皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II von Preußen)夫妻の銀婚式への陪席も許可されている。

リヒターフェルデで学んだ後、1906年3月6日に士官候補生となったマンシュタインは、プロイセン陸軍の在ベルリン近衛歩兵第3連隊に配属され、エンガー(Enger)の士官学校に入校した。翌1907年1月27日には近衛歩兵第3連隊付の少尉として任官し、次いで中尉に昇進した頃、同連隊所属の大隊長副官に就いている。

その後、1913年10月1日にはベルリンのプロイセン陸軍大学に進学したが、同大学での学友には機甲戦術の生みの親とされるハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian)がおり、年齢はグデーリアンが1歳年下だが陸軍大学校では同期生であった。

1914年7月末、第一次世界大戦が勃発し動員が開始されるとマンシュタイン中尉は直ちに陸軍大学を卒業して、8月2日には近衛予備歩兵第2連隊の連隊長副官に任命されて『マルヌ(Marne)会戦』に参加したが、この戦いの結果、独側の「シュリーフェン・プラン(Schlieffen-Plan)」(ドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェン元帥によって1905年に立案され、その後、修正された形で第一次世界大戦の始めに独軍によって採用された西部戦線における対フランス侵攻作戦計画)は頓挫し、戦局は短期決戦から長期持久戦へと変わっていった。また因みに、この「シュリーフェン・プラン」は後年、第二次世界大戦においてもマンシュタインの作戦立案に大きく関わってくるのだが・・・。

その後、東部戦線へと転戦しロシア軍と戦った彼は、11月にはカトヴィッツ(Kattowitz)で肩と左膝に敵の銃弾を受けて重傷を負ってしまう。そしてヴィースバーデン (Wiesbaden)の病院に半年近く入院した後、回復後に再び前線に戻った彼は、1915年6月に参謀将校としてガルヴィッツ軍集団(Heeresgruppe Gallwitz)に配属され、東部戦線(ポーランド)からバルカン戦線(セルビア)にわたって戦闘に従事した。

以後、大尉に昇進して西部戦線に戻る。先ず第12軍の軍団長副官となり、1916年1月には第11軍の参謀将校に着任して一大消耗戦となった『ヴェルダン(Verdun)の戦い』に加わる。次いで7月には第1軍の参謀将校として第一次世界大戦における最大規模の会戦である『ソンム(Somme)の戦い』の参加。翌1917年になると第4騎兵師団の主任作戦参謀としてエストニアで戦う。更に、1918年5月には第213突撃歩兵師団の主任作戦参謀に転出し、再び西部戦線に移った。

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