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【江戸時代を学ぶ】 粋な江戸の男たち《3》 トリを務めるのは『火消しの頭』 〈25JKI00〉

纏101 5f4a9e68e224479631544a6a97564dc4『江戸の三男』の最後、トリを務めるのは「火消しの頭」である。

 

火消しの頭

ここでいう頭(かしら)とは町火消(まちびけし)「いろは四十八組」の「頭取(とうどり)」のことだ。大きな組だと数百人以上もの火消人足がおり、少ないものでも70~80人は下らない。それだけの配下を危険な火災現場で防火活動に従事させるのだから、極めて大きな人望と頭抜けた統率力が必要とされた。

また普段は、自らの担当町内における喧嘩や揉め事などの仲裁や解決にあたり、侵入してきた不審者等の排除にも尽力した。つまり腕っぷしの強さは当然として、剛腕であるだけではなく義侠心や人間としての貫録といったものも身に着けている人物でなければ務まらなかったのだ。

 

町火消とは・・・

享保3年(1718年)に南町奉行の大岡忠相により、町火消の組織化を目的とした町火消設置令が出された。これ以後、町火消は町奉行の管轄下とされたが、その費用は各町が負担することとなる。

以降、組織の改編を経ながら元文3年(1738年)の町火消の規模は大組(「いろは48組」の各組をいくつかにまとめた組織)が十組から八組へと減じられ、定員は凡そ1万人(内、鳶人足が約4、000人)であった。(その後、組織には増減があったが、人員数は概ね江戸の町の発展に伴い次第に増加していったようだ・・・)

そして良く知られていることであるが、「いろは48組」(別に本所・深川に16組が存在)は「いろは」文字をそれぞれの組名称とした(「い組」「ろ組」「め組」など)もので、「いろは」文字のうち、「へ」「ら」「ひ」「ん」はそれぞれ「百」「千」「万」「本」に置き換えて使用された。

また江戸時代の消火活動は、延焼を防ぐ為に火災地周辺の建物を破壊していくという破壊消防が主であり、町火消の活動の中心も、素早い家屋解体が可能だった「鳶人足」(とびにんそく、一般的に高所での作業を専門とする建築職人を指し、棟上時に梁から梁へ文字通り飛び移ったので鳶と呼ばれた)によってその主力メンバーが構成されていった。また加賀藩の充実した防災体制を範としたこともあってか、江戸の町においても加賀鳶が活躍したとされる。

町火消は毎年正月の1月4日に、各組の町内で梯子乗りや木遣り歌を披露する「初出(はつで)」を行なった。これは、「定火消(じょうびけし)」(幕府直轄の消防組織で旗本が任命されていた。与力や同心といった武士の他に「臥煙」という専従の火消人足を抱えていた)が行なっていた「出初(でぞめ)」に倣ってはじめられたものである。

更に町火消の象徴として有名な「纏(まとい)」は、江戸期の町火消のシンボルであり、元々は武家が戦場で掲げていた旗印や馬印に由来するもので、これも「定火消」が使用していた馬印から受け継がれたものだ。多くが上部に組を表す頭部があって、手に持って振り上げたり回転させると「馬簾」という上部から垂れ下がった細長い房飾りが踊る様に開いて見えた。

組の中でも体力があり、威勢の良い者が「纏持」に任命されて、火事場で「纏持」は風下の家屋の屋根上で「纏」を振りながら消火活動の目印となると共に、消火に当たる町火消たちの士気を大いに鼓舞したのだ。そして火消たちは、「纏を焼くな!!」とばかりに決死の意気込みで働いたのである。

 

火消と喧嘩

「火事と喧嘩は江戸の華(・・・そのまた火消は江戸の華)」という言葉がある。江戸は大火が多くて火消の働きぶりが華々しかった事と、江戸っ子は気が短いために喧嘩が多かった事を表した言葉(諸説あり)だそうな。喧嘩早っくて威勢の良いのも江戸っ子の特徴だが、特に火消に喧嘩はつきものであった。

火消たちによる喧嘩は、火消同士の「消口争い(けしくちあらそい)」と呼ばれる火事場で(消火活動について)の功名争いに起因するものと、火事とは直接関係の無い喧嘩で、火消の気性の荒さや地元の町場での縄張り争いなどが原因のものがあった。当然、後者は喧嘩相手も同じ火消とは限らないが、町火消同士の喧嘩では非常に多くの死傷者が出たり、関係修復の為に莫大な費用を費やした手打式(大きな料亭で1,000人規模など)が行なわれたりと、大層な騒ぎになることも度々あった模様である。

しかし当時、火事と喧嘩はある意味、江戸の見物(みもの)とも思われており、江戸っ子の威勢の良さを体現したイベントでもあったのだ。

尚、「消口争い」は当初は「大名火消」や「定火消」といった武家火消と町火消との功名争いといった趣旨のものが多かったが、そこに見られる意地の張り合いにおいては町火消たちの心の中に潜在する封建制度への反発心が作用しており、だからたとえ相手が武士でも些細なことでは妥協は許されなかったのだ。そしてその意気地と闘争心は、やはり封建制度に抵抗する江戸庶民の心をも代弁しており、だから彼らの心意気を江戸庶民は「華」として讃えたのであるとも云われている。(しかしやがて時代が下ると、武家火消の衰退からこの喧嘩も町火消同士のものが主流となるが・・・)

 

「顔役」とは・・・

さてこの町火消の組織は、大組や複数の組などを統率する「頭取(とうどり、人足頭取)」、その下で各組を統率する「頭(かしら、組頭)」、(先述の)「纏持」と「梯子持」(合わせて道具持と呼ばれる)、「平人(ひらびと、鳶人足)」、「土手組(どてぐみ、下人足として火消しの数には含まれない)」といった階級構成であった。

また時代により差異はあるが、多い時には江戸全体で270人ほどいたとされる「頭取」には、人望があり且つ財力のある者が選ばれていたが、「一老(臈)」、「二老(臈)」や「御職(おしょく、同職の中で上位の者のこと)」などの位があり、特に「御職」は「顔役」とも言われて、江戸中で広く知られる存在であったという。

この「御職」はまさしく町の「顔役」であり、江戸市中の各地域の有力者でありボス的な人物でもあった。即ち「顔」を利かせる「役」という意味であり、公の社会からアウトローの世界にまで広い人脈を持ち、その「顔」を知られている為に、その人が「顔」を出すだけで多くの揉め事が治まるというような存在である。

実際には決して恐ろしい顔と暴力で相手を威圧して従わせたのではないだろうが、「喧嘩上等」の火消し軍団を背景としたその実力には、大概の不埒者も従わざるを得なかったのも事実である。

 

江戸の町火消は、「自分たちの町は自分たちで守る」という勇壮な男衆の集まりである。揃いの法被姿は憧れの存在であり、また特に「纏持」などは、江戸のアイドルでありファッション・リーダー的な存在でもあったとされ、その火事場での活躍ぶりは浮世絵などにもなっている。

そしてその彼らを束ねる「頭領」たち、所謂「顔役」は、一旦事あれば危険な火事場で荒くれ男たちを率いて意気地をみせ、そして普段は町衆を守る頼れる男伊達であった。これぞ江戸っ子の鑑ともいえる『三男』の一角であり、まさに江戸の男たちの理想像であったのだ・・・。

-終-

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