Browse By

《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -12》 織田家の面々、織田長益・頼長親子と織田昌澄 〈25JKI28〉

%e6%9c%89%e6%a5%bd%e6%96%8e%e5%ae%b6%e7%b4%8b668%e3%80%80c1

織田木瓜紋

今回は、途中脱落組(冬の陣まで豊臣方で参戦)の重鎮とも云える親子について取り上げてみたい。その名は、織田長益とその子息、頼長である。長益は戦後も茶道の達人として名を成し、子の頼長は父の創始した茶道「有楽流」を継いだ。

更にもう一人の織田家の血を引く武将として、織田昌澄について触れておこう。陣後は赦されて徳川秀忠の旗本となる人物である・・・。

そして、一旦は豊臣家に加担した長益の子孫の一部は徳川幕府の外様大名として、昌澄の子孫も徳川家の旗本として明治維新を迎えたという。

 

%e7%b9%94%e7%94%b0%e9%95%b7%e7%9b%8a123%e3%80%80img_1

織田長益

織田長益について

織田長益(おだ ながます)は、天文16年(1547年)に織田信秀の十一男で信長の異母弟として産まれたが、実母は不詳である。通称は源五もしくは源五郎。後に有楽斎 如庵(うらくさい じょあん)と号し、有楽斎と呼ばれることが多いが、単に有楽とも言われた。長益系織田家嫡流初代であり、官位は従四位下・侍従とされる。

天文20年(1551年)、父・織田信秀が死去すると家督は兄の信長(信秀の嫡男)が継いだ。長益は兄の信長とは13歳も年齢が離れており、その武将としての前半生の事跡はほとんどと言って良い程、史料には残っていない。

弘治3年(1557年)、信長の嫡男である信忠が誕生したこの年(弘治元年説もあり)には、信長と敵対した織田信行(信長の弟、後述の織田昌澄の祖父)が誅殺されている。この当時の長益については、幼い頃からの病弱な体質故に、以後、長じてからも戦にはあまり参陣していなかったともされている。

永禄11年(1568年)頃、平手政秀の娘である清(雲仙院)を娶り、また政秀からは幼少期より茶の湯の手解き等を受けていたとされ、既にこの頃から尾張の地では数少ない茶道家として名が知れていたとも云う(異説あり)。また後に千利休からも茶道の教授を受けた。

元亀3年(1572年)、信長の嫡男である織田信忠が元服(信忠の元服は翌年夏以降とする説あり)すると、長益は一門の織田長利(長益の弟、信秀の十二男)や勝長(信長の五男)などと共に甥の信忠の配下となる。天正2年(1574年)には、尾張国知多郡に所領を賜り、大草城を改修して居城とした。その後、天正6年(1578年)頃には従五位下を叙位されたともされる。

天正9年(1581年)の京都御馬揃え(信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードのこと)では、信長の連枝衆の中で織田信忠・織田信雄・織田信包・織田信孝・津田信澄の後に長益の名が見られる(「信長公記」)が、翌天正10年(1582年)の左義長(小正月に行われる火祭りの行事)では織田信忠・織田信雄・織田長益・織田信包の順となっている。

同年3月、信忠軍団の一員として甲斐の武田勝頼攻め(甲州/武田征伐)に参陣。木曽口から鳥居峠へ向かい、木曽勢を支援して鳥居峠の合戦に勝利した。戦役後半には、信忠配下の森長可や団忠正らと共に上野国方面にも進出し、国峯城主の小幡信貞(武田信玄の重臣で織田軍に降伏後は、滝川一益の与力となる)と戦ったとされている。また降伏し開城した信州深志城(松本城)の受け取り役を務めてもいるが、長益が直に信長に従って合戦に赴いた記録は、この武田攻略の時くらいとされている。

その後の5月には信忠に従い上洛して妙覚寺に入る。因みにこの年には、正室の雲仙院との間に、嫡男の頼長が誕生している。

同天正10年(1582年)運命の6月、明智光秀による本能寺の変の際は、織田信忠と共に二条御所にあって一時は籠城に参加。だが本能寺で信長が自刃したとの報に接し、主君の信忠には自害を勧めておきながら、自身は混乱に乗じて脱出して近江の安土城を経て岐阜へと逃れたとされている。

この為、世間からは主君を見殺しにした「不忠者」で「逃げ足が早い臆病者」とのレッテルを貼られる事になってしまった。例えば、文禄年間(1592年~1594年)に成立したとみられる愚軒による雑話集『義残後覚』には、本能寺の変の後に京都周辺の民衆が「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて 吾は安土へ逃げるかへる 六つき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と歌って囃し立てた、との記述がある。

ここ出てくる源五とは長益の通称であり、信忠に自害を勧めておきながら自分はちゃっかりと逃亡してしまった長益のことを、大いに皮肉った歌であった。また『明良洪範』(増誉が著わした江戸中期成立の逸話・見聞集)などにも同様の逸話が収録されているという。

しかし、長益の他にも前田玄以、水野忠重、山内康豊、鎌田新介(織田信忠の介錯役)らが、二条御所から脱出しているのだ。また、信忠の嫡男である三法師(秀信)も生きて落ち延びることに成功している。

筆者が考えるには、長益一人が信忠に自害を促した訳でもないだろうし、また状況が変わって脱出可能であれば、一旦退くことが著しく武将の道にもとるとも云えない。戦略的な判断の下、撤退して再起を期するのは何ら問題ではないだろう。死んでは元も子も無く、信長の仇も討てないのである。

だが、信忠は自刃を選んでしまう。そして余談だが、ここに大きな謎があるのだ。上記の通り多くの家臣が脱出に成功している戦況の中、信忠が二条御所で玉砕している事実には少々、疑問がある。物理的には充分に脱出行は可能であったが、別の理由でそれを拒んだのだろうか。あまりにも偉大なる父親の死に絶望・混乱した結果、精神的な弱さを露呈して生存本能が挫かれてしまったとするならば多少なりとも頷けなくもないが、信忠の一見潔い良い(否、諦めの早い)と見える行動は、戦国乱世の、しかも覇者織田家の家督継承者にあるまじき心の弱さとも思えるのだ。また、あそこで信忠に自害を選択させた理由の裏には、別の何らかの陰謀が存在しているのかも知れない。

長益に関しての筆者の見解としては、一旦、流れの中で信忠に自害もやむなしとの意見を述べた可能性は否定出来ないが、その後の状況において脱出可能とみて積極的な行動を起こした結果が史実の通りとなったのだと思う。あわよくば、主君の信忠も助け乍ら撤退作戦を完遂出来れば、現実とは逆にヒ-ローとして歴史に名を残したのだろうが・・・。

次のページへ》  

《スポンサードリンク》


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。