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【歴史雑学】 国家としての「日本」はいつ頃成立したのだろうか? また、なぜ「日本」と呼ばれだしたのか? 〈2408JKI54〉

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『日本』の成立は何時なのか?

古来より我国のことは、『大八島/大八州(おおやしま)』や『秋津島/秋津洲(あきつしま)』、『葦原中国(あしはらのなかつくに)』とか『豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)』などと言われていた(その他、多数があり)。また中国からは『倭(わ)/倭国』と呼ばれていた。

この中の大八島は、国生み神話において最初に創造された八個の島で構成される国という意味だそうだ。また葦原は、豊穣な地域を指す表現であり、古(いにしえ)の地名とも言われる。そして豊葦原瑞穂国というのは、「植物の葦(アシ)のよく生える瑞々しい稲の実る国」という意味とされている。

更に秋津(あきつ)は蜻蛉(とんぼ)を意味し、日本神話においては神武天皇が国土を一望して蜻蛉の様だと言ったことが由来とされている。また『日本書紀』や『古事記』では我国の本州の異称として秋津島/秋津州が使用されているが、元来は孝安天皇の都であった『室秋津島宮』が営まれた、奈良盆地西南部の葛城地方を指した地名であったとする説がある。

 

〈我国の黎明期、「倭」や「倭国」の時代〉
「日本」という我国の“国号”が確立される以前、日本列島の中部地域から西域にかけては、古代中国の諸王朝から「倭」や「倭国」と呼ばれる国家ないし民族の集団が定着・存在していたことに異論はないだろう。但し、当時のこの列島には一つの巨大国家ではなく、東北地方から九州南部までの間に複数の国家(王権)が並立していたとする説もある・・・。

そして中国最古の地誌とされ、戦国時代(前4世紀~)から「秦」・「漢」の時代(~3世紀前半頃)にかけて長い時間を経て徐々に成立したとみられる『山海經(せんがいきょう)』の“第九 海外東經”では、中国大陸のはるか東方の海中に「黒歯国」(珍説には南米の国だとの説もある)があり、その北方に扶桑(東海上に立つ伝説上の巨木のことであり、そこから太陽が昇るとされていたが、後世においての「扶桑」もしくは「扶桑国」は中国における我国の異称となり、我国でも自国のことを「扶桑国」と呼ぶ場合があった)の生育する「日(太陽)が昇る国」があるとされていた。

また同書の“第十二 海内北經”には「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」との文が記載されており、「蓋国」は「鉅燕」の南、「倭」の北にあり「倭」は「燕」に属す、とされている。このことから当時の「倭」については、中国・春秋十二列国の一つで戦国七雄の一角である「燕」(前1,100年頃~前222年)に進貢していた国と見做されていた様である。ちなみに、ここで云う「鉅燕」(巨大なる燕)とは、前285年ないし前284年頃に最盛期を迎え版図も極大となっていた時期の「燕」を指すともされていることから、この文章に登場する「倭」の状況は、同年代(前285年前後)の姿を示していると思われる。

また「倭」について初めて記述した中国の正史は、「後漢」の初頭に班固(32年~92年)が著わした『漢書』“地理志”であり、「倭」は朝鮮半島の南の海の先にあると書いてある。そして楽浪の海を越えた所に百余国の小国に分かれた倭人の国々があり、この国々の連合=総体が中国人にはひとつの国家として映っていたと考えられている。尚、この時期は我国においては、弥生時代中期の後半頃(前1世紀頃)とされる。

更に『漢書』の著者である班固とほぼ同時代の王充(27年~1世紀末頃)が著した思想書であり、一個人による百科全書的著作ともされる『論衡』には、「周代/西周」(前1,046年頃~前771年)の中国人が当時から(現在の)日本列島周辺の住人を倭人として認識していたと考えられる様な記述があり、倭人は古く「周」(西周+東周、前1,046年頃~前256年)の頃から大陸との関わりを持ち、海を渡って「周」に朝貢していたと受け止められていた事が分かる。またここでの記述に該当する我国は、縄文時代末期から弥生時代の前期にあたる。(即ち上記の『漢書』“地理志”が描く時期の少し前の時代である・・・)

〈その後の中国史書における我国の様子〉
その後、この「倭」・「倭国」の都(それ自体が独立した小国)のことは、3世紀末に書かれた“魏志倭人伝”(中国の歴史書『三国志』の中の「『魏書』第30巻 烏丸鮮卑 東夷伝 倭人条」の略称で、我国に関するまとまった事柄が記されている書物)では「邪馬壹」、『三国志』より前の時代を描くが成立は後の5世紀である『後漢書』の“倭伝”では「邪馬臺」と呼ばれている。

また7世紀の『梁書』“倭伝”では「祁馬臺」とされ、同じく7世紀の『隋書』では「俀国(倭国)」の都について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」、つまりその呼名は「邪靡堆」と記され、更に唐代の『北史』“四夷伝”では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とされて、「邪靡堆」・「邪摩堆」共に“魏志倭人伝”に記されている「邪馬臺」のことだとしている。

だがこれらの文字表記の違いは、『後漢書』“倭伝”が“魏志倭人伝”の「壹」を「臺」と書き間違えたもので、本来は「壹」が正しいという説と、「臺」は中国の皇帝が住む場所を意味する文字なので、敢えて“魏志倭人伝”はこの表記を避けて「臺」に似た「壹」という文字を使ったのであり、即ち「臺」が正しいという説等があり、依然として異なる表記の理由に関する決定打はない。

また『後漢書』では“魏志倭人伝”にない記述として、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、建武中元二年(57年)に「倭奴国」が朝貢した時、光武帝が金印(漢委奴国王印)を与えたとし、それが福岡県の博多湾にある志賀島で出土したことは有名だ。

つまり「倭奴国」の王は、楽浪郡(「漢」によって設置されて前108年~313年まで存在した朝鮮半島北部の中国王朝の出先機関、現在の平壌付近にあったとされる)にではなく、後漢の都の洛陽にまで使者をはるばる派遣し朝貢を行っていたことが証明されているのだ。

また同書には「安帝永初元年 倭国王帥升等献生口百六十人」ともあり、永初元年(107年)に「倭国」の王・帥升が奴隷(労働者)を160人献上したとされている。そしてこの帥升が、史料に現れる個人名が特定可能な初めての倭人ということになるが、情報は乏しく詳しいことは分かっていない。

〈「邪馬台国」と女王・卑弥呼〉
さて“魏志倭人伝”に描かれている「邪馬台国」(異論も多いが、以後便宜上、「壹」も「臺」も「台」として統一表記して国を付して「邪馬台国」とする)と後の「ヤマト王権」(奈良盆地等の近畿地方中央部を根拠地とした王権で、後の「大和朝廷」に連なる政権)との関連性、そして同国の位置・所在については諸説があることは知られているが、更に一般的なその読み方である「ヤマタイコク」についても諸説があり、「壹」(壱)や「臺」の意味や音から他にも「ヤマイコク」や「ヤマトコク」とする説もある様だ・・・。

しかし共通する認識には、「邪馬台国」は「倭」ないし「倭国」そのものではなく、連合国家である「倭国」の都が置かれていた一つの国(都市国家)のことであり、そのことは中国側歴史書から明白に推測が可能なのであり、また中国正史を調べる限りは国都の名がその国全体の名称であったという例は見当たらないことからも、「邪馬台国」=「倭」もしくは「倭国」ではないとするのが妥当である。

そして“魏志倭人伝”では、約30の国(ここでの国は都市国家的な自治共同体のことで、前述の通りそれ自体が独立した小国と考えられている)からなる「倭」もしくは「倭国」の女王(親魏倭王)である卑弥呼は、「倭国」の都としての「邪馬台国」(「邪馬壹」)に居住していたとされる。また「倭国」では、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70~90年後に国全体を巻き込んだ長い期間にわたる騒乱が発生(「倭国大乱」)したが、3世紀の初め頃に卑弥呼が現れ、国々は卑弥呼を共通の王(女王)として争い・混乱は収まり、都市国家連合が再結成されたとしている。

彼女は景初2年(238年)以降、帯方郡(前述の楽浪郡と同等の機関で、楽浪郡の南方に所在したが詳しい位置については諸説ある)を通じて数度にわたって「魏」に対して使者を送り、当時の皇帝から親魏倭王に任じられた。

最初の遣使は景初2年(238年)6月とされ、卑弥呼は帯方郡を経由して正使・難升米と次使の都市牛利を「魏」に遣わし、難升米は皇帝(明帝曹叡)に謁見して生口・貢物を献じた。但し、この朝貢の時期は景初3年(239年)とする説もある。

また正始8年(247年)に「倭」では、「邪馬台国」と「狗奴国」の間に紛争が起こり、「倭」から両国の争いに関しての報告を帯びて載斯、烏越らが帯方郡に赴いた。これを受けて「倭」に派遣された帯方郡の塞曹掾史・張政が檄文をもって女王を諭しとされるが、この時、遡ること2年前の正始6年(245年)に皇帝(曹芳)から難升米に下された詔書と黄幢を携えて来訪、併せて授与したとも伝わる。

そして“魏志倭人伝”には、卑弥呼の死(247年あるいは248年頃とされる)の後、一旦、男の王が即位したものの再び内乱状態となり、卑弥呼一族の13歳の少女・臺与(壱与とも)が女王として即位することで乱が収まったことが記されている。『日本書紀』の“神功紀”にも引用されている『晋書』“起居註”には、秦始2年(266年)、「倭」の女王の使者が「西晋」の都洛陽に赴いて朝貢したとの記述があり、またこの女王は壱与(台与/臺與)のことと考えられており、即ち『日本書紀』では、ここでの壱与の行動が神功皇后の事績として解釈されているのだ。

この時、壱与は掖邪狗ら一行に訪日後20年近くを「邪馬台国」で過ごしていた前述の張政も加えて帯方郡へと帰還させて、掖邪狗らはそのまま「晋」(「魏」を継いで呉を滅ぼして中国全土を統一した王朝)の都に向かった。

この秦始2年(266年)の遣使を最後に、以降、約150年にわたって「倭」に関する記述は中国の史書から姿を消している。従って3世紀後半から5世紀前半にかけての日本列島の状況は、金石文(きんせきぶん、金属製の道具類や石碑・石板などに記された文字資料のこと)をも含めた歴史的な史料がほとんど見当たらない為、その政治・文化、人々の生活様式などに関しては考古学的な資料を研究することで推測・検討しているのが現状である。

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