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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -14》 井上頼次と井上時利、矢野正倫・飯田家貞 〈25JKI28〉

大坂冬の陣において真田丸の攻防戦を除くと一番の激戦地となったのは、“鴫野・今福(しぎの・いまふく)の戦い”である。鴫野と今福は大坂城の北東から北北東に位置しており、豊臣方が防柵を築き防御を固めていた場所だった…。

今回の《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -14》では、この“鴫野・今福の戦い”とここで討死した豊臣方の守将たちにスポットライトを当ててみよう。だがこのクラスの武将になると、歴史的には相当にマイナーなランクである為、その履歴や事績はほとんど不明となってしまうことをご了解頂きたい。

 

《戦闘の経緯》
鴫野・今福の地は大坂城の北東約2kmにある水田地帯に位置しており、当時は堤の上以外は人馬の行動が困難な地形であった。豊臣方は東・北東方面からの攻撃に備えて、淀川や大和川、平野川等の天然の要害を活用して簡単な守備陣地を構築した。

鴫野には堤(鴫野堤)に三重の柵を設置して、その守備に鉄砲組を配置していたが、この鴫野堤柵の守将の頭は大野治長配下の武将で名を井上頼次と云い、他には頼次と共に大野治長の家来であった山本公雄、小早川左兵衛、武田兵庫らが守備の任に当たっていた。彼らの率いる兵力は凡そ2,000で、三重の柵に分散配置されて徳川勢を待ち受けていた。

そしてこの鴫野方面に進出した徳川方の部隊が上杉景勝勢である。慶長19年(1614年)11月23日に長途、河内国に着陣した上杉景勝の兵5,000は休む暇もなく同月25日には鴫野へと移動を命じられたが、上杉勢の南方には堀尾忠晴の兵が約800と丹羽長重勢200あまりが陣を敷き後詰を受け持った。丁度そこに徳川家康から「明朝に今福方面に攻勢を開始する佐竹義宣の部隊と同時に鴫野堤柵の攻撃を開始し、豊臣勢を撃破せよ」という命令が下る。

翌11月26日の未明、徳川秀忠の本陣から軍目付として来援していた安藤正次・屋代秀正・伊藤政世らは、あろうことか上杉勢に何ら連絡をせずに第一の柵に向かって数百名の槍隊を率いて攻撃を始めた。

豊臣側の守備隊はこれを迎え討って柵から出ては鉄砲で反撃したが、勢いに押されて再び柵の中に逃げ込んでしまう。暫くしてそこに上杉勢5,000と堀尾忠晴や丹羽長重、及び榊原康勝ら1,500の合計約6,500の軍勢が到着し、先の徳川軍に合力して攻め掛けた為に守備隊は慌てて後方へと退却し、この地区の指揮官であった井上頼次はあえなく討死してしまう。そこで上杉勢らは鴫野堤を占拠して鉄砲隊を配備して守勢を固めた。

この状況に直面した豊臣方は、鴫野の味方救援の為に大野治長と七手組の軍勢(1万を超える兵数とも、またこの時の豊臣方の援軍には治長の弟・大野治房や青木一重、渡辺糺、竹田永翁、木村宗明らの武将が参加していたとされる)を送ったとされ、数で勝る豊臣方からの激しい攻撃を受けた上杉勢は一旦は後退を余儀なくされ、多数の死傷者を出しながらも戦巧者の安田能元、水原親憲などの歴戦の武将を中心に鉄砲隊の一斉射撃を繰り返して反撃に出ると、双方の激しい銃撃戦の中、狭小な堤の上での壮絶な斬り合いが行われて暫し一進一退の激戦が続いたが、堀尾忠晴や丹羽長重らの加勢も加えた徳川勢の猛烈な反撃に遭遇した豊臣勢は、やがてこらえることが出来ずに大坂城へと退却し、これにより鴫野方面の戦いは一応終了となった。

この戦闘の際、上杉勢の第一陣・須田長義隊が突き崩され、交代して繰り出した第二陣の安田能元隊も敗退。だがその時、水原親憲や黒金泰忠率いる鉄砲隊が至近距離から500挺の鉄砲で一斉射撃を行い大野治房勢を足止めにして、そこに一旦退いていた第二陣の安田能元勢400が大野勢に逆突撃を敢行、これを見事に撃退した。戦後、直江兼続と不仲であった安田能元は徳川幕府から何の感状も褒美も賜らなかったが、「感状を賜らなかったからといって、そのことを決して不名誉とは思わない。それに自分は殿(上杉景勝)の為に戦ったのであって、大御所様や将軍様の為に戦ったのではない」と述べている。また徳川秀忠から感状を賜った親憲は、「此度の戦は子供の石合戦の様なもので、怖くも骨折りとも思わなかった。こんな花見同然の合戦で感状を頂けるとは、可笑しなことだ」と大笑いしながら語ったという。

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