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【太平洋戦争】 優駿 日本海軍 巡洋艦物語!! 第2回 軽巡洋艦 『阿賀野』 -後編- 〈3JKI00〉

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昭和18年1月下旬、トラック泊地にて電探装備などの改装を終えた『阿賀野』

この後編では『阿賀野』の戦歴を中心に解説するが、雷撃戦の中心として水雷戦隊を率いるべく建造された『阿賀野』型軽巡洋艦は、結果的にその本領を発揮する機会を与えられずに相次いで戦没することとなった。

本来の建造目的(水雷戦隊用旗艦)とは異なる用途(他艦の護衛任務など)に就いた彼女らは、その高性能ぶりを発揮出来ずに終焉を迎えた悲劇の艦艇とも言えよう。

『阿賀野』の艦歴・戦歴

『阿賀野』は、昭和15年(1940年)6月18日に佐世保海軍工廠で起工され、昭和16年(1941年)9月20日に『阿賀野』と命名され、同日附で二等巡洋艦『阿賀野』型のネームシップとして登録される。9月12日に内示された昭和17年度(1942年度)戦時編制では、当初の『阿賀野』の所属は第四艦隊の第九潜水戦隊の旗艦となる予定であった。

昭和17年(1942年)2月15日、前年の11月下旬まで重巡『古鷹』の艦長だった中川浩大佐は、『阿賀野』艤装員長に任命される。 その後の2月25日、佐世保海軍工廠内に『阿賀野』艤装員事務所が設置される。

こうして『阿賀野』は、昭和17年(1942年)10月31日に竣工を迎え、竣工と共に警備艦に指定される。また中川艤装員長も『阿賀野』の初代艦長となった。

しかしこの時期は、太平洋戦争の天王山とも言うべき「ミッドウェー海戦」は既に日本海軍の惨敗という結果で幕を閉じており、戦況の焦点は一大消耗戦と化したガダルカナル島の争奪戦を中心としたソロモン海域方面に移っていた。

完成後の『阿賀野』は、11月19日には第17駆逐隊の第2小隊(駆逐艦『浜風』と『磯風』)と伴にトラック泊地へと進出する。そこで『阿賀野』は直ち(11月20日附)に第三艦隊の第十戦隊に編入されて同戦隊の旗艦となり、それまで同戦隊の旗艦であった軽巡『長良』は第四水雷戦隊に転じた。(旗艦を継承したのは12月以降とする記録もあり)

そして、昭和17年(1942年)12月のウェーク(ウエワクとも表記)島攻略作戦に従事することになるが、この頃、日本軍はニューギニア方面の戦局を進展させる目的で、ニューギニア島北岸のマダンとウェ-ク島を攻略して飛行場などを設置、ラエやサラモアに対する後方基地として活用する「ム号作戦」を発令した。

12月13日附で『阿賀野』率いる第十戦隊と第二航空戦隊は南東方面艦隊(部隊)に編入され、ウェ-ク島攻略部隊(駆逐艦『巻雲』・『夕雲』・『風雲』、輸送船『清澄丸』)は12月16日の正午頃にラバウル泊地を出撃、一方、マダン攻略部隊(軽巡『天龍』、駆逐艦『荒潮』・『涼風』・『磯波』・『電』、輸送船『愛国丸』・『護国丸』)は同日の18時に同じくラバウル泊地を出撃した。

これらの部隊に加えて、外南洋部隊指揮官(兼 第八艦隊司令長官)の三川軍一中将は、連合軍ポートモレスビー基地からの航空攻撃に対抗してウエ-ク島攻略部隊の上空を援護・警戒の為に、角田覚治少将指揮の第二航空戦隊(空母『隼鷹』)と空母の直掩部隊として第十戦隊の『阿賀野』と駆逐艦3隻(『磯風』・『浜風』・『村雨』)を派遣、同部隊の援護を受けたウェ-ク島攻略部隊は特に大きな戦闘に遭遇することもなく、18日夜にはウェ-ク島への揚陸に成功する。

だがマダン攻略部隊は12月18日の空襲で『護国丸』が中破、米潜水艦『アルバコア(USS Albacore, SS-218)』の雷撃で軽巡『天龍』を喪失してしまう。そして12月20日には第二航空戦隊並びに第十戦隊の各艦は、前進部隊(指揮官は近藤信竹中将)への復帰を下令された。

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