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【古今東西名将列伝】 エーリヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

騎乗のマンシュタイン

独陸軍部内にはマンシュタインに関して、「ヒトラー以上のエゴイストである」という評判もあった。また彼に対する辛辣な批評としては、「彼はあまりにも野心と自信が強すぎる」というブラウヒッチュ将軍の言葉が代表的だ。

そんな強い自尊心を持つマンシュタインであるが、ある時はヒトラーに対しても平気で反対意見を述べたとも云われている彼の第2次世界大戦後半における活躍と、総統ヒトラーとの不和・確執を追い、更には戦争終結後のその生涯をこの後編では触れることとする…。

 

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〈 スターリングラード攻防戦から南方軍集団司令官解任まで 〉

セヴァストポリ要塞の陥落とほぼ同じ時期に開始された1942年の夏季攻勢『青の場合(Unternehmen Blau)』(ブラウ作戦、1942年6月28日より発動)は、南方方面の戦域におけるボルガ河西岸への到達とコーカサス(カフカス)地区(バクー油田の奪取)の占領を含む野心的な作戦計画であった。

1942年7月23日にはヒトラーは総統指令第45号を発令したが、この中で彼は以降の攻勢目標として、スターリングラードとバクーの占領を挙げた。そしてそれぞれの目標奪取の為に、南方軍集団はコーカサスを目指すA軍集団(第1装甲軍・第17軍とルーマニア軍部隊、当初は第11軍も参加)、スターリングラードの占領を目指すマクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)上級大将(最終階級は元帥)率いるB軍集団(第2軍・第4装甲軍・第6軍と同盟国の枢軸軍部隊)に分割されたのだった。尚、A軍集団はリスト元帥解任後は一時期、ヒトラーが直率、後にクライストが指揮官となる。B軍集団も7月13日以前はボック元帥が指揮していたが更迭された。

※戦後になり、マンシュタインは二つの分離した目標、つまり南方軍集団を分割してカフカスとスターリングラードを同時に攻撃したことで、指揮系統に混乱を生じ個々の戦力も弱体化したとして、かつてのヒトラーの作戦指導を批判している。

※この頃、少尉に任官したばかりのマンシュタインの息子ゲーロ(19歳)が戦死している

ゲーロとマンシュタイン

だがブラウ作戦発動後、結局は第11軍はレニングラードへ転戦することが決定した。マンシュタインはカフカス並びにスターリングラード戦線に対する軍集団の戦略的予備部隊として残しておくべきと進言したが、セヴァストポリ要塞の攻略作戦が終了すると第11軍は南方戦域に残置されることはなかった。

こうして一旦、マンシュタインの率いる第11軍は北方軍集団の下へと移るが、3ヵ月間のレニングラード戦線での任務も11月後半を迎える頃には、スターリングラードでソ連軍が大反攻を開始して独第6軍が包囲されるという事態が勃発する。

1942年11月19日、ソ連軍は『ウラヌス“Уран”(天王星)』作戦を開始してスターリングラード周辺で反撃を始めた。ドン川湾曲部から南下するソ連軍とスターリングラード南部から西進するソ連軍の包囲攻撃が始まり、11月23日にはカラーチが陥落して、激しいソ連軍の攻勢の前に戦線を押し戻された独軍及び同盟枢軸軍の内、この時点でスターリングラードの大部分を占拠していた独軍・B軍集団の第6軍などの部隊はソ連軍に包囲されて孤立することとなった。

そしてこのソ連軍の大攻勢を受けて「第11軍司令部は新たに創設された『ドン軍集団』を指揮し、即時、スターリングラード両側地域の統帥を担当せよ」との新たな命令がエーリッヒ・フォン・マンシュタインに下った。この時、重大な危機に直面したヒトラーは、緊急の火消し役として智将・マンシュタインをドン軍集団の司令官に任命してドン川流域の戦線へと急派したのだった。

11月21日、ドイツ側では第6軍を救援する部隊として、ヴィテプスクにあったマンシュタイン元帥の第11軍司令部を改編して新たな軍集団司令部が設置され、マンシュタインは即日、幕僚と共に特別列車で出発したとされる。

テオドーア・ブッセ歩兵大将

11月24日、この日、ちょうど55歳の誕生日を迎えたマンシュタインは、ようやくB軍集団司令部のあるハリコフ東方のスタロビリエスクに到着した。出迎えたヴァイクス司令官のもたらした第6軍の状況は極めて危機的だったが、マンシュタインも参謀(司令部作戦部長)のテオドーア・ブッセ(Theodor Busse)大佐(最終階級は歩兵大将)もソ連軍の消耗に期待しており、この時点では、まだなんとかなるだろうと楽観的な見通しを抱いていた。

但しヒトラーには、スターリングラードからの撤退という考えはなく、マンシュタインに対して包囲された第6軍他の独軍部隊に対して補給を可能にする回廊を、ソ連軍の囲みを破って確保する様に強く要求したのだった。またこの際にゲーリングが、特に根拠もなしに「独空軍はスターリングラードの第6軍に対して毎日600tの空輸による補給が可能である」と総統に安請負をしてしまうが、実際にはとてもそれは実現不可能なことであった。

※臨時編成されたドン軍集団には、第6軍の予備部隊であった第62歩兵師団・第294歩兵師団・第336歩兵師団に加えて新戦力としてフランスに駐屯していた第6装甲師団が急遽配備された。B軍集団のホト将軍の第4装甲軍(第48装甲軍団のスターリングラードで包囲されていた第24装甲師団を除く第11装甲師団や第23装甲師団など)も第6軍救出の為にマンシュタインの命令下に置かれた。

※この救出作戦で、ゲーリングの不用意な発言の為に独空軍は大きな損害を被る。同戦闘において、ソ連側の資料では676機もの独空軍輸送機 Ju52を撃墜したとするが、ドイツ側でも266機の喪失を認めているのだ。

※この時、ルーマニア軍の参謀長であったヴァルター・ヴェンク大佐(既述、後に独軍で最年少の軍司令官となり、同様に軍司令官となっていたテオドーア・ブッセと協同してベルリン陥落時に多くの民間人の命を救う)が壊滅に瀕していたルーマニア第3軍をまとめて、独軍の撤退時間を稼ぎ、またドン軍集団が第6軍救出に専念出来る状況を現出させたとも云われる。

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