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日本海軍最後の傑作戦闘機『紫電改』とは・・・後編 〈3JKI07〉

川西の姫路工場にて生産中の『紫電11乙型』の写真だが、作業には徴用された学生が当たっている

2. 熟練工の不足
上記で触れた発動機の製造・組立作業以外においても、当然ながら高い生産技術が要求された戦闘機の製作に関して、熟練・ベテラン工員の不足による生産技術面の問題は重大であった。

熟練工の多くが徴兵で生産現場から去り、戦争末期にはまともに工作が出来る工員は極端に少なくなり、経験不足の未熟な工員や、徴用された素人同然の女性や勤労学生などの手で重要な航空機も組み立てられていたのである。

当然、なんとか完成した機体であっても、あちらこちらの部位に不具合が生じており、自慢の層流翼(翼のまわりの空気の流れがきれいに流れる層流の範囲を大きくすることを意図した翼型)も、当時の素人工員の加工精度では、設計段階で意図した抵抗軽減効果等はほとんど得られなかったとされている。

3. 高品質の航空燃料や潤滑油の欠乏
“誉”発動機が目標としていた性能を発揮出来なかった他の理由には、航空燃料のオクタン価の問題があった。航空燃料のオクタン価(オクタン価が低いほど「異常燃焼(ノッキング)」が起こり易いが、言い換えるとオクタン価が高い燃料は「異常燃焼(ノッキング)」耐性があるので、エンジン出力の更なるパワーアップや過給器などの装着も容易)は、エンジン全般の性能に影響し当然ながら戦闘機の空戦能力を大きく左右した。 オクタン価100の航空燃料と80オクタン価程度のものでは、70km/hくらいの速度差は簡単にひらいたとされる。更に上昇力では比較にならない程、その差は大きかった。

米国では、ハイオクタン価ガソリンが製造できるフ-ドリ-(Houdry)接触分解法(フランス人化学者ユージン・フードリーとサン・オイル社やソコニー社が開発したもので、100オクタン価ガソリンの製造が可能となる方法)を用いて、昭和15年(1940年)後半以降には100オクタン価の航空燃料が生産され始め、昭和17年(1942年)頃からは急速に増産されていた。

しかし仏印進駐を切っ掛けに、我国ではその様な高品質の航空燃料などの入手(米国からの輸入)が一気に困難となり出した。具体的には昭和14年(1939年)12月に米国は航空用揮発油の製造設備や製造権の対日輸出を禁止、昭和15年(1940年)8月には航空用燃料を禁輸、同年12月に航空機用潤滑油製造装置等の対日輸出が許可制となる。

だが当初計画時の“誉”発動機は、設計開始時にはオクタン価100のハイオク航空燃料の使用を想定していた。即ち『紫電改』はオクタン価100のものを使用する前提で計画速度等の飛行性能が決められていたのだった。

だが上記の様に米国の対日禁輸措置により、昭和17年(1942年)には海軍より中島航空機に対して「100オクタン価の燃料は到底使用出来ない。せいぜい88~90モーターオクタン価でエンジンを完成すべし」という指示があったとされる。しかしこれは非常に重大な問題であり、“誉”設計陣にとってはエンジンの燃焼状況がすっかり変わってしまうことを意味していた。

そこで、点火プラグの熱価を上げたり点火時期を遅らせたりといった対応やブースト圧を少し下げること、燃料(混合気)濃度分布の改善、メタノールなどを配して異常燃焼を防ぎ、更に植込フィン・シリンダヘッドを採用するなどの対策が急遽研究されたのだった(各々に付いては各関連項目で詳述)が、結局は連合軍よりもオクタン価の低い航空機燃料を用いて太平洋戦争を戦うことには変わりなかったのである。

その後の太平洋戦争を通して、我国々内で精製可能であった航空燃料の品質の上限は91オクタン価程度であり、高い圧縮率エンジンを搭載する航空機に使用できる燃料にはほど遠かったとされる。但し、戦争末期までオクタン価91レベルの備蓄はある程度はあり、前線の航空部隊には優先的に供給されていたとも云う。逆に、訓練部隊などでは確実にオクタン価86~87程度の燃料を使用していたともされる。また海軍が95オクタン価、陸軍が87オクタン価の航空燃料を使用していたとの資料が存在し、しかもその理由は海軍が品質の高い航空燃料の製造方法を陸軍に開示しなかったことによるとしているが、真偽・詳細は不明だ。

しかし陸軍飛行第47戦隊で整備指揮小隊/整備指揮班を率いていた「整備の神様」こと刈谷正意中尉(後に大尉、戦後は航空会社の整備部長などを歴任した『日本陸軍試作機物語』)の著者)は、「これ(ガソリン)自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べて、太平洋戦争当時の我軍部隊が実際に使用していた航空燃料は、90オクタン価以上と銘打って補給されても実質はオクタン価86~88位がやっとだったのではないかと疑問を抱いていた、と云う。

尚、“誉”発動機に関しては、低オクタン価の航空燃料で運転した場合のエンジンの筒温過昇や「早期着火(プレイグニッション)」対策として、点火プラグの熱価の調整や着火位置周りの燃料(混合気)濃度分布の改善に関する取組み(後述のAMC開発導入)等にも順次トライしている。

この「早期着火(プレイグニッション)」とは、点火プラグによる点火以前に燃焼が開始されたしまう現象のことで、低品質や低オクタン価のガソリン、燃焼室内のオイル燃焼生成物(堆積したカーボンなど)が高温になり、プラグで点火する以前に混合気に引火することにより 発生する。 正常な点火時期以前に燃焼を開始してしまう為、「異常燃焼〈ノッキング〉」の発生原因となる。また熱価の合っていないプラグの異常加熱により発生する事もあるので、適正なプラグを選択しなくてはならない。

ちなみに、プラグは燃焼ガスで受けた熱を逃す必要があり、この熱を逃す度合いのことをプラグの熱価と言う。一般的に高回転エンジンはプラグ温度が高くなりがちなので放熱性の良い(つまり熱価の高い)プラグが必要となる。また熱価が低すぎるプラグでは温度が上がりすぎ、「早期着火(プレイグニッション)」による異常燃焼を誘発し、プラグの電極溶解やピストンの焼き付き等を招く原因となる。

さて、航空燃料だけではなく航空機用の潤滑油の品質低下、とりわけハイチューンの“誉”発動機は潤滑剤への依存度が高く、開戦後しばらくして高純度の各種潤滑油が枯渇したことで不具合が多く発生、同じ発動機を採用した四式戦『疾風』や『彩雲』なども『紫電改』と同様に稼働率の低下が著しかった。

昭和19年6月頃撮影された『紫電改』の増加試作機の4号機から8号機の内の何れかと推測される機体 (油温上昇対策としてカウリング下部のオイルクーラー開口部が大きくされている)

この航空機用潤滑油に関して言えば、かねてより米国からの輸入に全面的に依存しており、昭和13年(1938年)の年度末頃までは国内での生産は皆無であったとされる。しかし航空機の飛躍的な発達や航空戦力の充実に対する要求は次々に航空潤滑油の需要を増大させ、また対米戦の兆しが見えて来た時期においては、潤滑油のほぼすべてを米国からの輸入に頼っていた海軍は、太平洋戦争の開戦を切っ掛けに、急遽、国内における潤滑油の自給体制の整備に着手した。

だが開戦当初は精製にカナダ産原油を使用していたが、その後は占領した南方からの原油を使ってみたところ蝋分(パラフィン)を含むため脱蝋装置が必要となり、 昭和18年(1943年)に蝋濾過器が開発された(「海軍燃料史」)。しかし結局、海軍燃料廠では南方原油をもとには高品位の潤滑油を精製出来なかった模様である(諸説あり)。

また、国内での潤滑油生産が軌道に乗っていなかった開戦初期の頃は、占領した敵の飛行場から鹵獲してきた航空オイルを使用したともされる。国内産よりも品質が良かったからだが、戦後に前述の刈谷正意中尉は「敵と戦うのに敵のオイル使って戦争してたんですからねぇ!!」と苦笑したそうだ。

4. 水メタノール噴射装置
オクタン価の低下を補う目的で、大戦末期の日本軍機の一部には積極的に水メタノール噴射装置が導入された。そこでしばし、この装置について解説を試みるとしよう。100オクタン価の航空燃料が入手不可能となり、それを91オクタン価の航空燃料と 水メタノール噴射で補おうとしたのである。

ここでの水メタノール噴射装置とは、発動機における吸気温度を冷却液の噴射で下げることで高熱で引き起こされる「異常爆発(デトネーション/爆轟)」・「異常燃焼(ノッキング/爆燃)」を抑制し、一時的に高ブースト圧が使えるようにするものであり、燃料の対爆性を向上させてピストンやバルブを溶解や破壊から守った。尚、「異常爆発(デトネーション/爆轟)」とは、火炎の伝播速度が音速を超える爆轟現象を指す。 衝撃波によって、異常な燃焼活動が発生する状態で、この状況が発生すると通常の爆燃より高温高圧になり、一般のエンジンでは長時間は耐えられない。

それからこの装置では、高々度では気温が0度以下になる場合が多く、単なる水では凍る為、メタノール(メチルアルコール)を加えて凝固点を下げた不凍液を用いた。装置の仕組みは、ベローズ(bellows、蛇腹構造による伸縮性や曲折性といった機能が付与された配管・継手)を使った補助噴射調量装置を用いて気化器の手前で水エタノールを航空燃料(ガソリン)に対して一定の割合で噴射し、シリンダ内に混合気と共に供給して制爆力を現出するものだが、常用出力(巡航時)などの低ブースト時には水エタノールは噴射されず、離陸時の離昇出力および空戦時などの公称出力を発揮する高ブースト状態に効果を発揮した。

“誉”エンジンの場合もスロットルレバーに連動していて、一定のブースト圧(例えばブースト圧+200mmHg以上)を超えると自動的に作動する様に設定されていた。タンク容量は『紫電改』で140リットル、『疾風』の場合は160リットル、『烈風』での計画は200リットルであったとされるが、水エタノールの消費量は公称出力(戦闘時)の場合で毎時150リットル程度だから、断続的な使用ならば約1時間前後はこの装置を使えたことになる。

だが、100オクタン価のハイオク航空燃料が手に入らないことの対策として採用された水メタノール噴射装置だったが、発動機の出力を上げる効果がある反面、装置の調整が不充分な場合には「焔色不良」(前編既述、混合気が各シリンダーに均一に分配されず、特定のシリンダーにノッキングが集中してしまうトラブル)を助長することがあった。即ち、この様な問題点が改善されないことが、“誉”発動機の運転制限やエンジン不調に繋がったとも言えるのだ。

この水エタノール噴射装置は“誉”(及び「ハ45」)搭載の複数の軍用機(含む『紫電改)』)でその使用を進めたが、あまりにも劣悪な航空燃料の品質と装置の調整の難しさ等から、結局はその性能を満足に引き出すことが出来ずに終戦を迎えたとされている。また海軍機の『零戦』では、1機のみ試作機(“栄”31 型搭載機) が製作されたが実用化には至らなかった。

ところが、この水メタノール噴射装置に関しては陸軍の戦闘機である一式戦『隼』の後期モデルでの稼働が有名だ。『隼3型』(キ43-III)ではエンジンが水メタノール噴射装置付発動機「ハ115-II」に換装されて1,153機が完成、数多くの機体が実戦に投入された。操縦席後部に容量70リットルの水メタノールタンクを新設し、最大速度は『隼2型』後期タイプの548km/hから560km/hに向上した。つまり、水メタノール噴射装置の実用性に関しては陸軍が海軍を引き離していた訳である。

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