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【古今東西名将列伝】 ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(Heinz Wilhelm Guderian)将軍の巻 (後) 〈3JKI07〉

グーデリアン3imagesグデーリアン将軍を語る後編。 バルバロッサ作戦(ソ連侵攻)開始から敗戦までの彼の足跡を辿る。

危険な前線を指揮車輌で走り回った最初の指揮官であった彼だが、ヒトラーに対しても幾度も直言しては、その時々の役職を解任されている硬骨漢であった・・・。

 

グデーリアンは、1941年6月22日に開始されたバルバロッサ(Unternehmen Barbarossa)作戦-ソ連侵攻作戦-では中央軍集団(フェードア・フォン・ボック元帥)に属する第2装甲集団(3個装甲軍団を保有)の司令官として、ヘルマン・ホト上級大将率いる第3装甲集団と共に主力の打撃部隊として出撃した。

中央軍集団の右翼(南側)を進撃した第2装甲集団は、ミンスク包囲戦並びにスモレンスク攻囲戦において第3装甲集団と協力してソ連西部方面軍を迅速な包囲作戦で壊滅させるという大戦果を挙げた。

ところが、スモレンスク攻囲戦においては一時的に上官となっていたギュンター・フォン・クルーゲ元帥や同僚のホト将軍との意見の相違が目立ち始め、グデーリアンがモスクワ進撃を優先させた為にスモレンスク東方のヤルツェヴォの占拠が遅れ、ここから多く(約10万人)のソ連軍兵力を東側へと逃がしてしまうのだ。

装甲部隊のスピードこそが最大の武器であり、この疾風の突進力こそが戦場で主導権を握り続ける要因だと解釈していたグデーリアンと、装甲部隊の進出に併せて側面や後方を歩兵や砲兵が固める必要があり、先へ先へと急ぐよりは包囲した内側の敵軍の殲滅と側面防御の体制を築くことが重要と考えるクルーゲの違いは、この後も対立を深めていく。またこの時点では、ヒトラーもクルーゲの考えに同意を示していた様である。

そこで、一路、モスクワ攻略を目指して進撃していたグデーリアンであったが、スモレンスク奪取後にはヒトラーの命令により彼の第2装甲集団はプリピャチ沼沢地東方を南下して、南方軍集団に協力してキエフ大包囲戦に参加することになった。

こうして1941年8月末、国防軍最高司令部の命令に従い、グデーリアンの第2装甲集団と第2軍は南方へ移動、キエフ包囲作戦の支援を開始した。

 

キエフ包囲戦は、1941年8月23日に始まり、グデーリアン指揮下の第24装甲軍団(第2装甲集団の一部)とクライストの第1装甲集団とがキエフ東部のロフビツァ(Lokhvitsa)で合同した9月16日に包囲は完成(キエフ陥落は9月19日)するが、キエフ東地区のソ連軍残存部隊の抵抗は9月26日まで続いた末に終息する。

この結果、ソ連軍南西方面軍は崩壊し43個師団が壊滅、独軍はソ連軍将兵約60万人を捕虜とし、作戦は成功裏に終わった。

キエフ包囲戦の実施は、「敵野戦軍の撃滅」か「政治拠点(モスクワ)の攻略・占領」のいずれを優先させるかという戦略的選択の結果であり、(グデーリアン自身は後にモスクワへ直進すべきであったと述べているが)独軍中央軍集団のモスクワ進撃を優先させたとしても、それでは独軍南方軍集団のその後の進撃が困難であったことや、中央軍集団の補給体制がスモレンスク以東は未整備であったことから、実際にはヒトラーの選択した「敵野戦軍の撃滅」という方針が正しかったという意見も多い。

しかし、このキエフを攻略するのに費やされた約1ケ月間がモスクワ攻略を開始する時期を遅れさせることとなり、結果としてソ連軍はモスクワ防衛の時間を稼ぎ、彼の有名な「ロシアの厳寒=冬将軍」が独軍を襲うこととなる。つまり独軍はキエフにおいて戦術的勝利を得たが、この作戦は対ソ戦勝利という上位の戦略目標を達成する妨げとなったとも云われる。

 

その後、モスクワ攻略作戦であるタイフーン(Unternehmen Taifun)作戦が1941年10月2日に正式に開始された。

グデーリアンの第2装甲集団は9月末よりモスクワ進撃を再開し、ヘルマン・ホト上級大将指揮下の第3装甲集団、エーリヒ・ヘプナー上級大将率いる第4装甲集団と共にブリヤンスクとヴィヤジマにおける二重包囲戦でも大戦果を挙げた。10月14日には第3装甲集団がヴォルガ川を渡河し、モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を遮断、また10月末にはグデーリアンの部隊はトゥーラ近郊まで到達(モスクワの南の門とも呼ばれ要塞化されたトゥーラは一旦迂回)している。

10月以降は天候が悪化して雨が多くなり、多くの道路が泥沼と化した。これが独軍の進撃にとって大きな障害となり、装甲部隊の移動にも物資補給の段列にも悪影響を及ぼした。

しかし11月に入ると天候は回復して気温も大きく低下した。路面の状態が良好となり、独軍の進撃速度は復旧する。

だが、独軍は冬期の作戦を想定しておらず、厳冬期間用の衣服や装備を準備していなかった。更に、伸びきった補給線が既に限界(所謂、攻勢限界点)を超えていた。

こうして11月末頃には、独軍の攻勢は各地で停滞する。南部からモスクワを目指したグデーリアンの第2装甲軍(10月6日に装甲軍に昇格)はトゥーラを占領出来ないまま、これを迂回して進撃を続けていたが、遂にモスクワ南方のオカ川の川辺で前進を阻止された。

北方から進撃した第3装甲集団(1942年1月1日に装甲軍となる)は北部の要衝クリンを占拠し、必死に進撃を継続したがモスクワへの進攻は頓挫する。西方正面ではヘプナーの第4装甲集団(1942年1月1日に装甲軍となる)がモスクワの北西20km地点にまで進出したが、ここで前進を阻まれた。

12月になり数日が経過すると、気温はマイナス30度まで下落して、防寒装備も冬季用のオイルも不足していた独軍の装甲部隊は文字通り凍りついたのだ。

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