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【江戸時代を学ぶ】 貨幣制度と通貨の種類 〈25JKI00〉

次に銅貨だが、これは一個/枚が「一文」という銅から鋳造した計数貨幣であった。所謂、穴が空いた「銭」がこの銅貨のことで、銭1,000文を銭1貫文(かんもん)とする通貨単位であった。そして、後に足のサイズを表す一文・二文はこの銭の大きさ/サイズがいわれとなっている。

さて通貨の単位としての「文」の使用は意外に古く、それは皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)を始祖とするが、それは全国的に広く流通するという程のものではなかったとされる。しかしこの皇朝十二銭の鋳造が途絶えた後に、我国の経済活動が活発化するにつれて貨幣の必要性は高まるが、以後の鎌倉幕府や室町幕府は自ら貨幣を発行することは出来ずにいたが、海外との貿易により宋銭などの中国の銭貨が多量に流入し国内で流通するという「渡来銭」の利用期間が数百年ほど続いた。※皇朝十二銭とは、和銅元年(708年)から応和3年(963年)にかけて、我国で鋳造された有名な和同開珎を始めとする12種類の銅銭の総称である。本朝十二銭(ほんちょうじゅうにせん)とか皇朝十二文銭(こうちょうじゅうにもんせん)とも呼ばれる。どれも円形で中央に正方形の穴が開いている銭である。貨幣価値は、当時の律令政府が定めた通貨単位である一文であった。

銭貨に関しては、金貨や銀貨といった貨幣が徳川家康と江戸幕府により関ヶ原の合戦勝利の直後から整備されだしたのと比較して、江戸時代の初期において「慶長通寳」及び「元和通寳」の発行があったものの、これらは少量に止まり、依然として「渡来銭」の流通が継続していた。幕府が銭貨に優先して金貨や銀貨の整備を実施したのは、有力な金山・銀山などを確保し経済力を高めることが天下を掌握する重要な要件の一つであったからである。

寛永13年(1636年)以降、3代将軍の家光の代に「寛永通寳」が本格的に江戸幕府により発行されるようなり、ようやく我国は自前の銭貨を潤沢に持つようになったとされるが、こうして「渡来銭」を駆逐し「寛永通寳」が全国に行き渡ったのは金銀貨に比べて約35年近く遅れてからであった。

当初、銅貨の基本通貨は銅により鋳造された「一文銭」であったが、原料の銅地金が逼迫し、また江戸幕府の財政事情が常に困窮していた事情から「寳永通寳」の10文銭の発行が企図されたり、明和期以降は「寛永通寳真鍮四文銭」や「鉄一文銭」が多く流通し、更には幕末期において100文銭である「天保通寳」が流通の主流を占めるようになった。

これらの銭貨は、その穴に紐に通して纏めた「銭緡(ぜにさし)」として用いられ、96枚を100文として用いる「省陌法」が当時の一般的な慣行であったともされる。

 

こうして800年以上の歴史を持つ銭貨であったが、貨幣経済の拡大に伴い銭での取引には限界が生じ、また銭貨は長年の流通により劣化した鐚銭が多くを占めるようになったことから「撰銭」の慣習が始まり、貴金属としての価値の裏付を持った金貨や銀貨の流通を望む声が高まったとの説もある。※撰銭(えりぜに、えりせん、せんせん)とは、我国中世後期において、支払決済の際に市場で劣悪な銭貨(鐚銭・悪銭とも云う)が忌避・排除されたこと。

しかし片や、金貨や銀貨に関しても、殊に銀の海外との貿易による流出などにより全国的に潤沢に行き渡る量ではなく、依然として旧来の領国貨幣の流通が並行して行われ、それらの領国貨幣を回収して江戸幕府の下、通貨の統一を達成したのは元禄の吹替え(元禄小判の発行)を待つ必要があった。※領国貨幣(りょうごくかへい)とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて、各地の大名が独自に自領内で通用する貨幣として鋳造を命じた金貨および銀貨のことでであり、領国金銀(りょうごくきんぎん)とも呼ばれる。

 

さて、江戸幕府は貨幣発行権の独占と貨幣の様式の統一を目的として、金・銀・銅(銭)の性格の異なった三つの貨幣からなる「三貨制度(さんかせいど)」を制定したのであるが、しかし上記の通り各々別個の貨幣体系を持ち各単位の名称等も異なっていた。これは、江戸幕府が貨幣の全国統一を行う過程で、既存の貨幣流通の排除を諦めた結果として幕府主導の金貨による貨幣制度に加えて、銀と銅(銭)の貨幣が併存する制度を採用したことによる。先にも述べたように上方/大坂・堺の豪商を中心とする秤量銀貨の流通を許容し、従来からの一般庶民に広く行き渡った「渡来銭」の使用に加えて、新たに金貨を用いる三つ巴の貨幣制度であった。

この「三貨制度」による三貨の相互関係は時代によって異なっており、金貨1両当たりの相場(交換レート)は銀貨だと江戸時代初期には50匁、元禄年間(1688年~1704年)頃では60匁程度、銭貨の場合は約4,000文くらいであったとされる。

また特に江戸と上方の交易に関して、金貨と銀貨の交換の中心的役割を果たしていたのが「両替商」という商人たちで、その際の手数料で巨万の富を築いたとされる。

そしてこれらの金貨や銀貨、そして銭貨の交換には幕府の触書による御定相場(一種の固定相場)が存在したが、実態は互いに変動相場で取引されており、更に質の良くない貨幣が発行されると、その貨幣の価値は大きく下落し相場は大きく変動してしまうことになるのだが、その相場の変動に乗じて「両替商」という名の金融業者は大きく利益を上げて勃興・発展していった。

-終-

 

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