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【大好き都市伝説】 杉野はいずこ? 英雄のその後の運命 〈2316JKI07〉

広瀬中佐1hirose

広瀬武夫中佐

日露戦争の軍神、広瀬武夫少佐(戦死後、中佐)とともに第二次旅順港閉塞作戦で戦死したとされる杉野孫七上等兵曹(戦死後、兵曹長)には、かねてより生存説があった・・・。

「杉野はいずこ、杉野は居ずや」と歌われた、その数奇な運命を追う!!

 

文部省唱歌『廣瀬中佐』の一番の最後の方で歌われる「~杉野はいずこ 杉野は居ずや」の部分で有名な、杉野兵曹長。戦前では誰もが知っていた日露戦争の英雄である。

とどろくつつおと 飛び来る弾丸
荒波洗うデッキの上に
やみをつらぬく中佐の叫び
「杉野はいずこ、杉野は居ずや」

 

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広瀬武夫少佐(死後中佐)が指揮をとった閉塞船「福井丸」の乗組員 (財団法人三笠保存会所蔵)

第二回旅順港閉塞作戦で、広瀬少佐は沈みかけた閉塞船の福井丸から脱出する時、爆薬点火のために船艙に降りた杉野上等兵曹を、三度も船内を巡り探すことで生還のタイミングを逸したといわれている。もう少し早く離船していれば、脱出のカッター上で敵弾の直撃を受けて戦死することも無かったかも知れないからだ。

広瀬武夫は、その勇気ある行動から戦死後に軍神と讃えられ、行方不明となっ杉野もまた兵曹長に進級、遺族に対して勲章(功六級金鵄勲章ならびに勲六等旭日章が追贈)と年金が授けられた。

そして各地に銅像や記念碑が建てられ、文部省唱歌にも歌われた杉野も広瀬とともに英雄となったのである。しかし戦死とされた杉野の遺体は発見も確認もされず、作戦終了直後から生存説もあったのだった・・・。

 

ところで、関東大震災の時にアナキストの大杉栄と彼の妻(伊藤野枝)および甥の少年を殺害した人物として有名な、甘粕正彦大尉をご存知だろうか。

その甘粕は事件の後、短期の刑に服した後に何故か(陸軍の費用で)フランスに渡り、昭和5年には帰国して今度は満州に移り、奉天の関東軍特務機関長土肥原賢二(当時、大佐)の下で情報・謀略工作に就く。その後、右翼の大物、大川周明の助力を得て甘粕機関という民間の特務機関を設立。愛新覚羅溥儀の満洲国皇帝擁立に動いたり、満州事変の切っ掛け作りの爆弾事件を起こすなど数々の謀略を実行する。

満州国建国後は、民政部警務司長(警察庁長官)や満州国協和会の理事、そして満州映画協会(満映)の理事長となるが、裏では満州の阿片ビジネスを牛耳り、「満州は昼は関東軍が支配し、夜は甘粕が支配した」といわれたほどの黒幕/フィクサーとなった。

 

一説によると、なんと杉野孫七は、その甘粕の特務機関に所属していたという奇想天外な話もあるのだ。

甘粕から「珍しい人物に会わせてやろう」と言われて杉野を紹介されたという人物は複数いるが、その内のひとりは昭和19年頃、新京(長春)郊外の満州人の家で杉野に会ったという従軍看護婦(実際は特務機関で働いていたといわれる)田島竹女さんだ。彼女によると、杉野兵曹長は背の低い小柄な老人だった、と云う。また同時にハイラル特務機関に属していた横田正二氏も杉野に会ったそうだ。

彼らの証言によると、杉野兵曹長は旅順港閉塞作戦の後、ロシア側に救助されて捕虜になっていたがポーツマス条約の締結後に釈放された。戦後、一旦帰国を決意し釜山に辿り着いたが、内地で自分が軍神にされていることを伝え聞き、帰還を断念したという。そした杉野は、釜山を去り新京の近くにある饅頭屋で働くうちにその真面目な性格を見込まれて、そこの娘と所帯を持った、と語ったとされる。尚、他説によると、杉野はその満州人の女との間に三人の子供をもうけたともいう。

また他にも、杉野とともに特務機関で一緒に仕事をしたことがある、という満州人の発言が得られている。

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