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【日本史-人物小研究】美濃三人衆 〈25JKI28〉

令和時代最初の投稿が、極めて地味な題材になってしまった感が強いが、読者諸兄には事前に準備していたものを順番に公開している都合であることを、是非ともご理解賜りたい。

さてそこで本稿の内容を改めて紹介すると、“美濃三人衆”(“濃州三人衆”や”西濃三人衆”とも)と呼ばれた戦国期の武将たちに関してである。

戦国末期に活躍した、美濃国西部において協力して独立の勢力を築いていた3人の武将たち、即ち、氏家直元(卜全)と安藤守就(道足)、そして稲葉良通(一鉄)を指して、“美濃三人衆と呼んだのだった。

彼らは当初は土岐氏、そして斎藤氏に仕えたとされるが、永禄10年(1567年)の織田信長の岐阜・稲葉山城攻めに内応して本領などを安堵されたとされる‥‥。

 

美濃三人衆

彼らは西美濃に拠点を有した斎藤家の、特に有力な3名の宿老で、同家の重臣たちが連署をする場合、必ず彼らが名を連ねたとされる。

だがやがて主君の斎藤龍興に軽んじられる様になった三人衆はこれに不満を抱き、永禄10年(1567年)になると相次いで斎藤家から離反して織田信長に仕えた。そしてこれが織田家の美濃併呑に大きく寄与したとされる。またこの後、織田軍団の中においても信長直属の軍勢として、彼らはまとまって一つの部隊をなして各地を転戦していた模様だ。

※同じく斎藤家から離れて織田信長に仕官した不破光治を含めて、4人衆とする説もある。また、不破が安藤や氏家、稲葉と連署した文書も見つかっている。

※安藤と氏家に加えて、日根野弘就、竹腰直光、日比野清実、長井衛安らが連名して署名している古文書もあり、彼らを称して“斎藤六宿老と呼ぶこともあるが、これには稲葉や不破は含まれていない。

 

■氏家直元(うじいえ なおもと)

氏家直元(?年~1571年)は、常陸介を名乗ったが、卜全の呼名の方が広く知られていよう。彼は、美濃大垣城の城主。大河内城攻め・姉川の戦いなど転戦後、元亀2年(1571年)に伊勢長島の戦いに赴くいたが、この戦いでの退却中に、反織田軍/一揆勢の手によって討死した。遺領は子の直昌、次いで直通(行広)が継ぎ、父に代わり三人衆として力を奮ったが、後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、所領を失った。大坂冬の陣では荻野道喜と変名を用いて大坂城に入城し、豊臣家に与して活躍したとされるが、大坂城落城と共に自刃した。

※六角一族の佐々木祐成に討ち取られたとされる。

■安藤守就(あんどう もりなり)

安藤守就(?年~1582年)は、伊賀守を名乗った。姓は安東とも表記されるが、一説には伊賀姓であったともされ、この場合は伊賀伊賀守とも。美濃北方城主であった。有名な竹中重治半兵衛)の舅であり、永禄7年(1564年)に、半兵衛が稲葉山城を乗っ取った事件にも関与しているとされる。天正8年(1580年)、織田家から追放されたが、その理由とされる甲斐武田氏に内通したという罪の真相は定かではない。ちなみに、ほぼ同時期に織田家の重臣であった丹羽氏勝や林佐渡守らも追放の身となっている。信長の死後、旧領を回復する為に立ち上がるが、稲葉良通親子によって討ち滅ぼされてしまった。

※竹中重治の稲葉山城奪取の際には、守就の兵2,000が稲葉山城下を制圧し一帯を占領したとされ、現実には安藤の軍勢の力が半兵衛の快挙を支えたとされる。

※守就の追放の裏には、尾張・美濃の直属軍団を子の信忠の配下として再編成しようとした織田信長の意図もあったとの説もあるが、『信長公記』には、丹羽や林を含めた3名の追放の理由として「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり(先年、信長公が苦闘を重ねていた折、それに乗じて野心を含んだためであった)」と記されている。

■稲葉良通(いなば よしみち)

稲葉良通(1515年~1588年)は、伊予守を名乗ったが、入道名の一鉄として知られる。美濃国曽根城の主。また、安藤氏と同族で伊賀氏の末裔とされることもある。彼は幼少時に崇福寺で僧侶となり、あの快川紹喜の下で学んでいたが、父や兄たちの戦死により還俗して家督と曽根城を継いだ。初め土岐氏、次いで斎藤氏に仕えたが、やがて他の美濃三人衆と共に斎藤氏から離反、織田信長の配下に加わり織田軍団の勇将として活躍。本能寺の変に際しては自領に所在しており、混乱に陥ることなく西美濃地区の治安を維持した。 その後、信長に追放された同じ三人衆の安藤守就の挙兵に対しても、子の貞通と共にこれを討っている。以降は羽柴秀吉に仕えて、後に『三位法印』に叙せられている。彼は、天正16年(1588年)11月19日、美濃清水城にて死去した。享年74歳。

嫡男の貞通は郡上八幡城主となり、『羽柴郡上侍従』と呼ばれた。関ヶ原の合戦では、決戦直前に東軍に加わり、後に豊後臼杵五万石に転封となった。

※その性格は非常に頑固であり、そのことから彼の号の“一鉄”にかけて、「頑固一徹」や「一徹者」の言葉が生まれたともされている。

良通は、剛将ながら茶道や能に造詣が深く、医術にも関心を持っていたとされる。

 

歴史好きの間でもなかなか渋いチョイスの三人組だが、いずれも勇猛果敢で、三人とも戦史ゲームの世界でも武力/戦闘力の高い武将にランクイン。ちなみに稲葉一鉄は、後に徳川家光の乳母となった春日局(斎藤福、稲葉正成の妻)の外祖父でもある。

-終-

 

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