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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -5》 明石掃部頭全登 〈25JKI28〉

今回も大物を取り上げる。牢(浪)人五人衆のひとりで、キリシタン武将としても有名な、明石掃部全登だ。彼は、宇喜多秀家の重臣で、関ヶ原の合戦で敗れた後、大坂の陣で豊臣方につくが、その最後は不明である。敬虔なキリシタンとして自刃はしていない、とされるのだが…。

 

明石掃部頭全登

明石全登(あかし たけのり/てるずみ他)は、生没年不詳の戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。諱は守重や景盛など複数が伝わり、また号の全登の読みも定かではない。しかし最近の研究では守重(もりしげ)説が有力で、全登も「おしとう」と読むとの説も唱えられている。官途名は掃部頭(助)で、そのため通称は掃部(かもん)と呼ばれた。

さて全登の出自だが、(少々長くなるが)有名な南北朝時代の守護大名赤松則村(円心)の次男である赤松貞範の後裔で、伊川城の主であった明石宗安や景行に連なる和気郡坂根城主の明石飛騨守景憲の子で、保木城主であった明石飛騨守景親(諱に関しては最近では行雄説が有力、後に伊予守)の嫡男(異説あり)であるとの説が有力である。

また備前国の明石氏の一族は、古代の明石国造の子孫とされ、彼らの一部は既に鎌倉時代以前から古文書等の文献に登場している。

鎌倉時代前期の公卿、内大臣衣笠(藤原)家良の血を引くともされ、明石越前守尚行を経て、やがて修理介長行の娘が小寺政職の妻となり、黒田官兵衛孝高(如水)の母となった。この明石氏は、代々、赤松氏(及びその重臣たち)に仕えたとされている。

全登に、この明石氏の血脈がどれほど関わるのかは定かではないが、彼の直系の祖先である赤松貞範の末裔が明石姓を名乗る過程で、明石尚行の子孫の一族との間で重複した血縁関係が発生していた可能性は非常に高い。(その為、黒田如水とは遠戚とされている)

さて全登の父親の景親は、赤松家の有力家臣であった天神山城主の浦上宗景の被官という立場であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に従い、以後は宇喜多家の客将となったとされ、景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、3万石以上の知行を得るまでになった。

景親の嫡子である全登も、その跡を継いで宇喜多家の重臣格(但し、当初は客分扱いで宇喜多の領国経営等には参加していない)となった。

 

後の世においてキリシタンとして有名な全登は、1595年~1596年頃に宇喜多詮家(浮田左京亮)の勧めでキリスト教に改宗した模様だ。洗礼名はドン・ジョアン(ヨハネとも)。以降は積極的に信仰を広め、結果的には宇喜多家の領内で2,000人~3,000人の信徒を得たとされる。

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