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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -5》 明石掃部頭全登 〈25JKI28〉

文禄・慶長の役(1592年~1598年)、即ち朝鮮出兵においては、主(あるじ)の宇喜多秀家(文禄の役では総大将、慶長の役では左軍の軍監)に従い渡海、従軍する。

そして、その後の慶長4年(1599年)には、宇喜多家内部で御家騒動(宇喜多騒動)が発生する。

この事件は、当時、宇喜多家の家宰(執政)であった長船綱直や中村次郎兵衛(名は刑部とも、秀家の正室豪姫の家来で前田家から遣わされた者)らの専横への他の重臣たちの不満、またキリシタン(豪姫も長船もキリシタン)と仏教徒の対立などが組合わさったものだったが、長船綱直が1597年に死去(反対派による毒殺との説もある)した後、中村次郎兵衛の処罰を要求して秀家に反旗を翻した4人の重臣、戸川達安・宇喜多詮家(後の坂崎出羽守直盛)・岡貞綱・花房正成らが追放されて、後に残る形で全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切り、領国支配の中枢の座に就くことになったが、この騒動で有力な譜代重臣を一度に失い、宇喜多家の力は一挙に弱まってしまう。(しかし、この御家騒動の原因には不明点も多い)

またこの時、最終的には大老徳川家康が騒動の裁定を下し、家中の武力による争いは回避されたようにみえるが、これは家康の宇喜多家弱体化の狙い通りの結末であったとも云われている。

こうして家宰(執事)となった全登は、政治面では朝鮮出兵で疲弊していた財政の再建に尽力し、軍事面では間違いなく宇喜多家の大黒柱的な存在となり、秀家のもとで軍師を兼ねた形で全宇喜多軍を率いる立場となった。また3万数千石程度の知行だったものが、この頃には豊臣家の直臣として6万石もの加増を得て、併せて10万石もの領地を有する大身となっていた。

更に全登は、主君の秀家の姉を妻としていたので、秀家とは義理の兄弟にあたる。そして結局、御家騒動で重臣の多くが宇喜多家を去ったことによって、秀家の唯一の頼りは全登だけとなってしまい、その後はより信頼される様になったのであろう。

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、宇喜多勢15,000の内8,000の兵力を率いて先鋒として戦い、歴戦の福島正則勢などを相手に大いに善戦したが破れ、戦後、宇喜多秀家が改易されて流刑とされると、同じキリシタン大名であり親しかった遠戚の黒田官兵衛孝高のもとで匿われたという。黒田藩には縁戚の明石一族が多く仕えていたが、孝高の死後にはその嫡男の長政がキリスト教を禁教とした為、柳川藩の田中忠政のもとへ落ち延びたとされている。

全登は関ヶ原の敗戦時、主君の秀家が、小早川秀秋の寝返りを目の当たりにして、激怒のあまり討死覚悟で突撃をしようとするのを何とか諫めて、大坂へ退くように進言して逃がした後、自らは殿軍を務めながら戦線を離脱した。しかし秀家は、一旦、伊吹山の山中に逃れたが、東軍に捕縛されてしまう。そして後に八丈島へ流罪となった。

またこの敗走の際に、黒田長政とともに田中吉政に助けられたとの逸話も残っている。黒田家は明石家とは縁戚であり、(信じ難いが)吉政は全登の義父との説もある。

その後、全登たちは漸く岡山城に辿り着くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔したと云う。

前述の通り、縁戚関係のある黒田家を頼って、しばらくは筑前に潜伏していたという話もあるが、実際に黒田家に匿われていたのは短期日であり、現実には御尋ね者・流浪の身として各地を転々とする生活を送り、再び世間に出る機会を待っていたものと思われる。

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