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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -5》 明石掃部頭全登 〈25JKI28〉

全登は、大坂の陣の直前、慶長19年(1614年)の10月頃に突如、約2,000(4,000とも)のキリシタン兵を引き連れて大坂城に参陣したとされる。彼の願いは、迫害されていたキリスト教の信仰の自由や布教の許可と、八丈島に流されていた旧主の宇喜多秀家の解放であった。

彼は、大阪城中における有力牢人五人衆の一人となり、一説には数人のパードレ(司祭)と、洗礼名モニカという自らの母や、カタリナという息女などの女性を入城させ傷病者の看護にあたらせたと云われている。

しかし冬の陣では、豊臣方は木津川口に砦を築き、全登を守将として兵力800で守備させていたが、この砦を攻略する許可を家康から得た徳川方の蜂須賀至鎮は、11月19日の未明、浅野長晟や池田忠雄に先んじて抜け駆け攻撃を実行した。ところが全登は大坂城に打ち合わせの為に伺候して不在だった為に、指揮官不在の守備兵は混乱し、砦は陥落してしまうのだ。

この木津川口の戦いでの敗戦くらいしか、冬の陣での全登の動静は見られないが、翌慶長20年(1615年)の夏の陣では重要な役を担うことになる。

 

その夏の陣では、まず道明寺の戦いに参戦している。後藤又兵衛基次が突出して討死した合戦であるが、全登隊は徳川方の水野勝成や神保相茂、伊達政宗勢らと交戦して、彼らを混乱に陥れた。しかしこの戦いで全登は負傷してしまう。

ある説では、又兵衛の救援にキリシタン部隊を率いて急行する途中で、水野勢の鉄砲隊の待ち伏せ攻撃に遭遇し、決死の反撃及ばず壮絶な戦死を遂げたというものもあるが、この場合は最終日を待たず討死していたことになる。

そして5月7日の最終決戦、天王寺・岡山の戦いでは、蒲生氏郷の家臣であった小倉行春と共に全登は300余名の別働隊を率いて、家康本陣への迂回突入(これは真田信繁が提案した秘策であり、真田隊や毛利隊などの主力が敵の注意を引きつけておいて、その隙に明石別働隊が敵の左翼を迂回して背後に回り、混乱に乗じて家康の首を取るというもの)を狙っていたが、待望の豊臣秀頼の出馬も中止となり、更に天王寺口南方での真田信繁隊の玉砕、毛利勝永隊の撤退を受けて、船場で待機していた明石隊は当初の計画を放棄、松平忠直らの諸隊(松平忠直と水野勝成、本多忠政、藤堂高虎勢など)に突撃し奮戦、一時は越前(忠直)勢を押し返したが、その後、四方から徳川方に攻め寄せられたために明石隊は壊滅したが、その後、肝心な全登は姿を消したのだった。彼は厳重な包囲網の一角を突破して、戦場を離脱したとされるのだ。

しかし『徳川実記』(他には『土屋知貞私記』や『石川家中留書』など)によると、水野勝成配下の汀三右衛門あるいは石川忠総に討ち取られたと記されているが、他にも多くの徳川方に与した諸家の家伝が、それぞれに全登を討ち取ったと伝えて功を誇っているが、それ以上に落ち延びたとする伝承(『大村家譜』や『山本豊久私記』など)も多い。戦後に大々的に「明石狩り」が行われたという話も伝わるので、徳川方でも戦死をしっかりとは確認出来なかったようだ。

生存説のいくつかは、嫡子の内記と共に故郷の備前国の和気郡に潜伏したとか、また美作国において帰農したとか、筑後国の柳川の熱心なキリシタンに匿われとも、また土佐国に落ち延びたという説、そして遂には南蛮の地へ渡った(『戸川家譜』、『武家事紀』など)との諸説があり、真実はまったく不明である。

どちらにしても、宣教師を自分の屋敷に住まわせて保護するほどの熱烈なキリシタンであった全登のことだから、自殺を戒めるキリスト教の教えに従い、自刃の可能性は極めて少ないとされる。

以降、全登を恐れていた徳川幕府は、彼を執拗に探し出そうと試みるが、とうとう全登は見つからず幕府を悩ませたのだった。

 

明石掃部全登は、豪傑タイプの武将ではなく、特に個人的な武勇伝の様な逸話は伝わっていないが、関ヶ原の戦いぶりからは武略全般に長けていた武将と思われる。また、徳川方となった元宇喜多家の家臣、戸川達安から調略を受けたりもしているが、逆に機転を利かせて東軍の情報を聞き出そうとするなど、知略に優れている感じもするのだ。

最後は行方不明、討死した証拠はどこにも無い。何処かで生き延びた彼は、あくまで徳川幕府の転覆を狙っていたのだろうか。そして九州へ落ち延びたとすると、後年の天草の乱などへの関与が疑われるところだが、可能性がゼロではないところが歴史好きには堪らなく楽しいというものだ!!

-終-

【参考-1】
土佐国香美郡韮生郷(高知県香美郡香北町)には明石全登が落ち延びて来たという伝承があり、現在でも明石姓が多い。

【参考-2】
現在の秋田県扇田町にも全登の子孫とされる人々が存在する。元国際連合事務次長の明石康は、同地の明石一族の出身で全登の子孫とされている。

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