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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -4》 毛利豊前守勝永 〈25JKI28〉

鶴丸123photo

森家家紋 「鶴丸」

実際の大阪の陣において、最強の武将は彼、毛利(森)勝永だったのでは、とも考えられている。史実の戦闘記録を検証してみても、その戦術指揮能力の高さは真田信繁(幸村)に引けを取らない。

真田や後藤又兵衛基次、木村重成などに比べると、その知名度はグンと落ちるが、玄人好みの佳い武人である・・・。

 

さて、来年(2016年)のNHK大河ドラマは、既に「真田丸」に決定しているが、確かに真田信繁(幸村)といえば戦国武将のなかでも屈指の人気者だ。しかし大坂の陣において、信繁(幸村)と並んで大坂方の主力部隊を率い、信繁(幸村)をもしのぐ奮戦を見せた毛利勝永の名が語られることはなぜか少ない。そこで今回は、そんな勝永にスポットを当ててみた。

 

《豊臣秀吉時代の森親子の動静》 

勝永の父親である森吉成(後に勝信、本稿では以後は勝信と表記)は、尾張の岩倉織田家家臣の森家に天文15年(1546年)頃に誕生したとされる。岩倉織田家の織田信賢が滅んだ後は、最初は織田信長に仕え、永禄4年(1561年)頃から後は豊臣秀吉(木下藤吉郎)の家臣となる。尚、同じ岩倉織田家の重臣に、山内一豊の父(盛豊)がいて、勝信と一豊は幼馴染だったとされている。

また勝信親子の森家も義家流森氏の末裔として、家紋は鶴丸を使用していた模様であり、美濃の森一族、例えば森可成や森長可とか、また信長の小姓で有名な森(蘭丸)成利などと遠戚であったとも云われるが詳しくは不明であり、どうも直接的な関係はなかった様だとの説も有力だ。

勝永は天正5年(1577年)頃に、勝信の子として尾張国で生まれたとされる。現在では、毛利勝永として知られるが、その諱は吉政(よしまさ)が正しい可能性が高い。即ち、一次史料には勝永という名は見られず発給文書等は全て吉政と署名していると云う。また大日本史料』などでは森豊前守との表記(事情は後述)が多い。

父親の勝信は、永禄11年(1568年)9月の観音寺城の戦いには、既に秀吉配下で参加。元亀元年(1570年)の越前征伐にも従軍し殿軍として激戦を生き延びた。天正5年(1577年)、秀吉の中国攻めに参陣。またこの頃、播磨国内に2千石の領地を拝領している。

天正10年(1582年)6月13日に、秀吉が山崎の合戦で明智光秀に勝利するが、この戦いで勝信は「黄(母)布衣七騎衆」のひとりとして活躍している。

その後、勝信は天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参加、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いからは、勝永も小姓として父と同様に秀吉に出仕した。天正13年(1585年)には父・勝信が従五位下・壱岐守に叙位任官する。

こうして森家は豊臣家の中でも珍しい事実上の譜代の臣であった為、勝信(吉成)は秀吉の天下取りの歩みと共に、自らも大きく出世していった。

やがて九州征伐に従軍した後、天正15年(1587年)7月、肥後国人一揆の鎮圧で勝信が手柄を上げた。それ以前の功績も含めて、父は豊前国小倉6万石(一説には10万石)、子の勝永も豊前国の内に1万石(4万石との説もあり)を拝領し、この際に、秀吉の計らいで森の姓を、中国地方の有力大名であった毛利氏と同じ姓に改めているが、当時の読みは「もり」のままであったというのが通説。つまり、毛利元就以下のあの毛利家との血縁は全く無いのだ。

ちなみに、森から毛利に姓に替えた者には、毛利高政や毛利吉安などがいるが、彼らと勝信・勝永の家系との関係性は不明であるが、皆同じく尾張出身である為、同族・縁者であるとの推測も可能だ。また同じように、毛利信友も親族と思われるが詳細な続柄は解らない。

 

文禄元年(1592年)からの第一次朝鮮出兵に勝信が出陣。その際、毛利壱岐守勝信は四番隊総大将として島津義弘等の南九州勢を率いて渡海し、文禄2年(1593年)6月19日の第二次晋州城攻防戦に参加し大活躍した。

その後、文禄3年(1594年)には勝信が一時帰国して伏見城築城工事に奉行として参加するが、文禄5年(1596年)9月に秀吉は再度朝鮮出兵を決定。この頃、勝永は従五位下・豊前守に叙任し、慶長2年(1597年)に勝信と一緒に出陣し朝鮮の地で活躍を見せた。(黄石山城攻略戦など)

慶長2年(1597年)12月21日の第一次蔚山城の戦いで父の勝信と加藤清正を救援し、明軍を撃破して戦功を立てた。その後に勝信と一緒に西生浦倭城へ移動し在番守備を固めた。

そして秀吉の死後、慶長3年(1598年)10月15日に、五大老と五奉行の連名で撤退命令が下り、ようやく帰国の途に就いた。

 

《秀吉死後、関ケ原の合戦とその結果》 

慶長5年(1600年)の東西開戦では、勝永は石田三成や大谷吉継らに説得されて、父と共に西軍に味方し参戦した。

勝信に代わり近畿方面で軍勢を指揮した勝永は、伏見城の戦いで格別な戦功をあげ、毛利輝元や宇喜多秀家より感状と3,000石の加増を受けた。しかし、毛利九左衛門(香春岳城城主)や毛利勘左衛門などの重要な家臣を失ってもいる。

9月15日の関ケ原の合戦当日においては、毛利本隊と共に南宮山に布陣するが、勝永隊は決戦に参加出来ずに合戦は西軍が敗れた。また豊前では小倉城を黒田如水に奪われており、戦後、勝信・勝永の毛利家は改易となった。

所領を没収された彼らは、初め肥後藩主の加藤清正に預けられた。だが翌年の慶長6年(1601年)には土佐の山内一豊が毛利父子の身を預かることになった。山内一豊は前述の通り勝信とは幼少期より親しかった上に、豊臣家の家臣だった頃に、上役だった勝信が一豊の面倒をよくみており、一豊は毛利父子に恩を感じていたようだ。

そんな縁から、彼らは山内家では厚遇され、次男吉近は山内姓と2千石を賜り土佐藩家老に取り立てられる。勝永は家督を譲られ山内家重臣の娘を娶り、慶長6年(1601年)12月には長男勝家が誕生した。そして父の勝信は土佐の地で静かに生涯を閉じている。慶長16年(1611年)のことで享年は66歳。

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