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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -3》 薄田隼人正兼相 〈25JKI28〉

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『魁題百撰相:薄田隼人』落合芳幾作 ボストン美術館蔵

シリーズ3回目は薄田隼人(すすきだはやと)。草双紙や講談の世界で活躍する、岩見重太郎の名で知られる超人的武芸者と同一人物ともされるが、現実にはその可能性は極めて低いだろう。

しかし、(後年の人々に)そうだと良いなと思わせる何かが、実際の薄田の豪放なキャラにはあったのではないか。

いずれにせよ、痛快な豪傑であったことは間違いない・・・。

 

 

薄田兼相(すすきだ かねすけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての伝説的な武芸者、岩見重太郎と同一視される武将である。当初の名は古継とも。通称(自称)は隼人または隼人正(はやとのしょう)。元々は筑前小早川家の家臣であったが、諸国遍歴の後、豊臣家に仕え、最後は秀頼の臣として大坂夏の陣で討死したとされる。

前半生に関してはほとんど不詳であり、出身地も筑後の国の他に山城国とされる説もあるようだ。

彼は小早川隆景の剣術指南役であった岩見重左衛門の二男として誕生したが、叔父の薄田七左衛門の養子となった後に全国へ武者修行に出たとされる。帰参の後は薄田隼人と名乗った。そして隆景の死後は牢人となったが、武芸に大変秀でた武士であったことは確かだ。

その後、朝鮮出兵の時期には豊臣秀吉の馬廻役を務めていたとも云われ、慶長2年(1597)年には、朝鮮の蔚山城に布陣していた浅野幸長に対して日本側の状況を使者を送って伝えている。

1610年以降には豊臣秀頼に仕え3,000石の禄を得ていた(やがて5,000石もしくは6,000石にも加増されたとの説あり)とされている。慶長16年(1611年)には、「禁裏御普請衆」として記録に名が残っている。しかしこれらの大半の真偽は不確かであるが、『寛政重修諸家譜』によると、妹に堀田一継の室がいる。また兼相は無類の酒好きと伝えられ、大男でもあった。

 

大阪の陣では当然だが、豊臣家の侍大将として参加。そしてこの頃、兼相は重要な軍議に、大野治長、大野治房、織田長益、木村重成、渡辺糺などと共に、豊臣秀頼家臣団の重要な一員として参加している。

ところが、慶長19年(1614年)の冬の陣においては牢人衆を率いて博労ヶ淵砦を守っていたが、油断故に遊郭で遊んでいる最中に博労淵の戦いが発生し、砦を徳川方に占拠されるという大失態を演じた。

詳しくは、同年11月29日に豪雨をついて蜂須賀至鎮と石川忠総の部隊により攻撃された博労淵砦では、指揮官である兼相不在により守兵の統率は乱れ、副将の平子主膳正貞の判断ミスも相俟って、同日、砦は陥落したのだ。

この為、味方からは「橙武者(だいだいむしゃ)」(諸説あるが、橙は見た目は大きく美しいが、酸味が強くて食べられないので正月飾りにしか使えない。その為、見かけ倒しでいざという時に役立たない、の意味)と嘲笑された。尚、兼相のことを「橙武者」と呼んで大いに嘲り笑ったのは敵方の徳川軍である、との説もある。

 

翌年の夏の陣では、 前年の失態で無能な武将であると酷評された兼相は冬の陣での汚名を返上するべく、今回の戦いで何んとしても華々しい戦果を上げる必要があったと考えられ、また劣勢となっても撤退などは眼中に無かっただろうと思われる。

そして慶長20年/元和元年(1615年)5月6日、兼相は大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いにおいて、先方で孤立した後藤又兵衛基次の隊を救援に向かう途上、道明寺口において多数の徳川方と激突、大激戦を繰り広げるが奮戦むなしく戦死する。

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One thought on “《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -3》 薄田隼人正兼相 〈25JKI28〉”

  1. 列伝 says:

    いや、実に実に面白く楽しかった薄田隼人正兼相伝、こういう話はいいなぁ。
    ありがとうございました。たの勇将たちの話も愛読させて頂きます。

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