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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -3》 薄田隼人正兼相 〈25JKI28〉

さて、兼相は幼少の時から怪力の持ち主で相撲でも負けたことがなく、実際の戦闘でもその怪力を活かして敵兵の首を素手でへし折ったとも云われる。

その大柄な体格と怪力を応用した「柔術・兼相流」の開祖であり、「剣術・無手流」の始祖とも伝わる兼相のことだから、さぞかしその闘い方は凄まじいものがあっただろうと思わせるし、彼が剣豪、岩見重太郎の後身とされている事も頷けるのだ。

 

そして岩見重太郎という豪傑が、諸国を漫遊しながら各地で狒々(ひひ)や大蛇等のモンスターを退治したり、山賊・野盗から村々を守ったり、そして父親の仇を宮津の天橋立で討ったという伝説は有名だ。

現在でも天橋立には仇討の碑があり、その周辺には岩見重太郎に関連する史跡(重太郎の試し斬りの石など)が残っている。その為、岩見重太郎が実在の人物であった可能性はあるが、彼の活劇物語の成立過程は草双紙・講談などで大幅に脚色され、講釈師らの創作により各地に残る様々な伝説・伝承と結びつけられたと考えられている。

 

岩見重太郎(兼相)の妖怪退治の一つには、大阪市の住吉神社に残されている伝承がある。

それは、毎年のように風水害に見舞われ悪疫に苦しめられてきたある村に武者修行の途上に立ち寄った重太郎(兼相)が、生贄の娘の身代わりになって辛櫃に隠れて人間の女性を攫うとされた大きな狒々を誘い出して、数時間に及ぶ格闘の末にこの禍々しい狒々を倒して生還するという物語だ。

重太郎の、同様の化け物退治の物語は、いろいろな地域で繰り広げられる。そして越中黒河でも語り継がれているのだが、各地で倒されるモンスターは狒々か大蛇が多いが、黒河では大蛇だった。大きな湖の主の大蛇と重太郎の三日三晩の激闘の様子が伝えられるが、その大蛇はだったかも知れない。

岩見重太郎の冒険譚は、正義の武人が人身御供をとる悪神を倒すという昔からの物語の典型であり、類似のストーリーは我国だけではなく世界各国に見られるものだ。

 

一方、重太郎の仇討ち物語は、天正18年(1590年)9月20日、日本三景の一つ、天橋立で起きた。

この日この場所では、丹後の国、宮津城主の中村一氏が軍馬の調練を行う予定であったが、再三にわたり願い出ていた岩見重太郎の仇討ちの申し出をこの場でならばと許可したのである。

重太郎は、今では中村家の剣術指南役である広瀬軍蔵と仲間の2名を仇として追っていたのだ。

かつて広瀬軍蔵は、重太郎の父親である岩見重左衛門と小早川家の剣術指南役を争って試合をして負けるが、その後、仲間二人とともに重左衛門を闇討ちにした上に、重太郎の兄である重蔵と妹の辻をも殺害して逃亡したのだった。

そこで重太郎は、重左衛門の仇を討つべく、また兄妹の恨みを晴らすべく小早川家の仇討免状を持ちながら諸国を巡り、軍蔵とその仲間である大川八右衛門と鳴尾大学の3人を探し続け、遂に宮津城下で見つけたのだった。

そして豪勇まぎれもない剣豪の岩見重太郎が、本日この天橋立で、父親や兄妹の仇を討つという事を聞き伝えて、多くの見物人も集まってきたが、片や中村家側は、(卑怯にも)唯一人の重太郎を多数の家来たちで取り囲み、押し包んで亡き者にしようと考えていた。

そこへ重太郎、ひるまず一人で乗り込んで行くのだが、次々に重太郎に斬りかかる中村家の武者たちの姿は、まさしく雲霞の如しで、さすがの重太郎もなかなか目指す仇のもとまでは進めない。それでも必死に槍を打ち振るいながら、多勢に無勢の中を少しづつ前進を続けるのだった。

とそこへ何処からともなく、六尺はあるかという鉄棒を手にした漢(おとこ)が躍り出て来た。なんとこの人物が塙団右衛門直之であり、続いて登場する槍の名人、後藤又兵衛基次とともに義兄弟、岩見重太郎の助太刀として現れたのだったが、これはあくまで講談などでのお話、何でもありの展開である。しかし、後の大阪の陣での盟友たちの出現は、アンチ徳川の江戸期の庶民たちの希望通りの人選である。

さて今や大暴れの3人組にタジタジとなった中村一氏の家来たちは、何時の間にか及び腰となり、遠巻きにしてただ見守るばかりであった。

ここに至っては、広瀬軍蔵らも自らの手で闘うしかない。刀を抜き放って重太郎に立ち向かって来たが、仇の3人以外は団右衛門と又兵衛が睨みを利かせている為か、誰も助勢には加わらない。それどころか、殿様の中村一氏などは、そそくさと帰り支度を始める始末。

しかし、軍蔵たちだってそれなりの剣豪なのだから、簡単には決着が着かないのだが、幾度かの刃合わせの後、斬りつけた軍蔵の太刀をヒラリとかわして振り下ろした重太郎の刀は、見事、その肩をとらえ、左右から同時に襲い掛かった八右衛門と大学の刃を受け流しつつ大学を左肩から袈裟がけにして、逃げようとする八右衛門の背中を刺し貫いて、遂に長い果し合いは終わりを告げた。

こうして重太郎がめでたく本望を遂げた様子を見守っていた多くの見物人からは、歓喜の拍手が沸き上がったという・・・。目出度し、目出度しなのである。

 

この話は、安政5年(1858年)の一龍斎貞山(いちりゅうさいていざん)の『岩見重太郎実記』で描かれているが、その後も、歌舞伎や多くの芝居などで取り上げられている。

講談等によると、この仇討ちの後、重太郎は伯父である薄田七左衛門のアドバイスを受けて、薄田隼人(正)兼相と名乗り西軍の一員として関ヶ原の合戦へ参戦するのだ。

しかし本懐を遂げたのが岩見重太郎かどうかは別として、おそらくは天橋立で、仇討ちに類する事件があったことは確かなのだろう。そして前述の通り、岩見重太郎が実在の人物であったとしても、この様なスーパーヒーローであったとはとても思えないし、尚更、薄田兼相と同一人物であるという説には相当の無理があるだろう。

 

薄田兼相の墓は、大阪府羽曳野市誉田7丁目に子孫にあたる浅野家の一族によって建立され、1996年以来、羽曳野市の指定有形文化財となっている。

 

最近ではマイナーな存在となっているが、江戸時代中期以降、多くの一般庶民にもその名を永く記憶されたのが、岩見重太郎=薄田隼人(正)兼相であったと思う。

そこには、強大な徳川方に戦を挑んで散っていったヒーローへの、江戸期の庶民たちのささやかな抵抗の願いが込められているのだった。

-終-

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