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【連載小説】伊藤さんのいた写真 6 〈869TFU29〉

カフェ店内店のマスターが自らカウンターの中から、オーダーを取りに来た。白髪まじりで口髭を生やしたその人は、やさしい目で伊藤さんに何にしますか、と尋ねた。伊藤さんはミルクティー、と答えた。店の壁のコーナーにあるスピーカーから、トッド・ラングレンの「It wouldn’t have Made any difference」が流れてきた。やわらかいイントロに続いて「Do you remember the last time I said・・」という歌いだしの詞が、伊藤さんの記憶と重なり、私も涙があふれてきた。

 

その場にいた誰もが、遠く離れた故郷に残してきた家族にあったような、あるいは憧れのヒロインにあったような、すぐに言葉をかわせない状態だった。それに、伊藤さん以外の誰もが涙で言葉に詰まっていた。しばし、表現のできない沈黙が流れた。専務や棚橋さん、佐伯さんがチラチラと私に視線を投げる。ここは、私が口を開くしかない。

私は涙をこらえて
「大人数ですみません。」そう言って、頭を下げた。伊藤さんも少し微笑んで頭を下げた。
「そんな緊張しないで下さいよ。こちらもやっとお会いできて緊張してます。な!ははは。」専務は、そう言って私の方を見た。専務も本当に緊張しているようだった。

「そうそう、こちらさんも自己紹介をして下さいよ。」不動産屋に促され、私たちは一人ずつ名前を名乗った。
「今日は伊藤さんとお呼びしていいですか?」社長が聞いた。
「はい。」と女性はうなずいた。

なんとなく私から質問せざるを得ない雰囲気になった。私は、伊藤さんの目を見て、話かけた。
「先週まで、市立病院に入院されていたそうですね。」
「はい。」
「入院は長かったのですか。」
「3ヶ月でした。なにしろ、痛くて歩けないほどだったので。」
「歩けないほど?そんなに悪かったのですか。」
私が言うと、誰もが申し訳ないような表情をした。伊藤さんも下を向いた。
「今日はそんな様子なのに、すみません。」社長が丁寧に頭を下げたので、我々も一斉に頭を下げた。

「ところで、伊藤さんは製造にいらっしゃったの?」棚橋さんが尋ねた。
「はい。」伊藤さんは、少しほぐれた表情で棚橋さんのほうを向いた。
「そう、だとすれば私たちと同じ仕事よね。」佐伯さんが言った。
「第二工場?」棚橋さんが再び尋ねると、
「ええ、第二工場です。」と伊藤さんはにっこりと笑って答えた。工場

「同じだわ。」「どのへんで作業していたかしら?」
佐伯さんと棚橋さんが交互に言うと、伊藤さんは
「第一工場の通路の近くです。」と答えた。
「ああ、休憩室のほうね。あの辺りは、埃っぽかったでしょう?」佐伯さんがそう言うと、
「え?埃なんてとんでもない。埃なんか飛んでたら大問題ですよ。」伊藤さんは必死に否定しながらそう言った。その様子に圧倒されるように、佐伯さんは
「そ、そう?」と驚いたように言った。
一瞬間をおいて、棚橋さんが
「工具の使い方とか、覚えるまで大変だったでしょう?」と気を取り直すように聞いた。
「そうね。カタカナの難しい名前で、大変だったわよね。」佐伯さんが言うと
「工具?工具は使いませんでした。」伊藤さんは訝しげに答えた。
「え?第二工場で工具使わないの?」
「工具なんか使いません。ゴムの手袋をするだけです。」と伊藤さん。
「ゴムの手袋?」佐伯さんが不思議そうに聞き返した。
「もしかして、梱包もやってたんじゃないのかな?」専務が横から口をはさんだ。
「梱包だったら、箱詰めが大変だったでしょう。」棚橋さんが心配そうに聞いた。
「ハコ?私は袋詰めまでしかやりませんでした。」
「袋?ビニールかぶせることですか?」佐伯さんが手振りを加えた。
「いえ、汁と一緒に袋に詰めてました。」伊藤さんはきっぱりと言った。
「し、汁?」「なんでしょう、汁って?」「そんな用語あったか?」棚橋さん、佐伯さん、専務の3人は顔を見合せながら戸惑いながら、口々に言った。
「そうだ、写真を見れば思い出しますよ。」おかしなやりとりに堪らず、私が慌てていった。専務も「そうそう」と体を乗り出してきた。私はカバンの中か例の写真を取り出して、専務に手渡した。OLD picture (1)

 

「この写真に写っているおさげ髪の女性は、あなたでしょう?ちなみにこれが私。今はかなり体形が変わってしまいましたが。そしてこちらにいる佐伯さんと棚橋さんがこれですよ。右端が工場長。懐かしい写真でしょう?」
専務は丁寧に指しながら説明している。棚橋さんと佐伯さんも大きくうなずいて、3人で伊藤さんの顔を覗き込んだ。

伊藤さんは写真を見て、すぐに顔を上げると
「これは私じゃありません。」
と、首を振って言った。
場の空気が固まった。

「じゃあ、この字は?これはあなたが書いたものではないですか?」社長は手を伸ばし、写真を裏返すと指差した。
「私じゃないです。私は、こんなに達者な字は書けません。この写真に写っている方々も、全く知りません。」伊藤さんは、あっさりと言った。

「うーん、つまり・・」専務が腕を組みながら、困ったという様子で何か言おうとすると
「あなたは伊藤弥生さんではないのですか?」と社長が、ゆっくりと確認するように言った。

「はい。私の名前は、伊藤よし江と言います。ひらがなの(よし)に(江戸の江)です。伊藤弥生さんではないです。」われわれは顔を見合わせた。
「で、でも話がずいぶん噛み合ってたじゃないの?工場にいたんでしょう?第二工場がなんとかまで?」不動産屋の親父が慌てたように伊藤さんに聞いた。
「はい。川沿いにあった漬物工場にいました。」伊藤さんは、少し微笑んで言った。「第二工場では漬け上がった商品を、樽から出して袋に詰めていたんです。」工場作業員
「漬物?」不動産屋は、目を大きく見開いた。
「なるほど、どうりで工具なんか使わないわけだ。」専務が言うと、全員が一斉に笑った。皆が沈滞した空気をかき消すように、大きな声で笑い続けた。
不動産屋は、何か言いたそうにしながら、ばつの悪そうな顔をしていた。
笑いが収まった頃、

「でも、さっきの写真のお話、興味があります。良かったら、聞かせてもらえませんか?」
伊藤よし江さんは、好奇心にあふれる目でそう言った。
「もちろんですよ。実は・・」私達は写真をテーブルの中心に置いて、話を始めた。

この伊藤さんとの奇妙な出会いが、私達を大きく変えることになるとは、このとき誰も予想していなかった。

≪つづく≫

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