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【国鉄昭和五大事故 -5】 紫雲丸事故 〈1031JKI51〉

事故後の対策など

本事故の重大さを受け、この前年の1954年(昭和29年)9月に起きた『洞爺丸』事故後の青函連絡船の安全対策の調査審議のため、運輸省がその年の10月に設置していた「造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会」及び同年11月に国鉄が設置していた「青函連絡船設計委員会」を1955年(昭和30年)7月に「日本国有鉄道連絡船設計委員会」と改称、この二つの会議で引き続き 宇高連絡船の安全性改善の調査審議も実施された。

これらの答申内容に沿って、引揚げ後復旧工事を施行した『紫雲丸』のみならず姉妹船の『眉山丸』や『鷲羽丸』についても、同様の安全対策・改善工事が実行された。

先ずは水密隔壁を増設、車両甲板化の水密隔壁を7枚から10枚に増やした。具体的には、車両甲板下の後部船員居住区とその下の第二船艙の水密区画を水密隔壁で前後に分割し、その二つ船尾側の機械室水密区画を水密隔壁で前後に分けてヒーリングポンプのある前半分をポンプ室とし、タービンのある後ろ半分を主機室とした。これに伴いヒーリングタンクがポンプ室側面部のみとなる様に2肋骨分縮小し、片舷容量62.5m3となった。

また、車両甲板下3等雑居室とその下の車軸室の水密区画を水密隔壁で前後に分割し、更に前半分を縦に3分割し、車両甲板下3等雑居室は廃止し船員室とした。

更に重心低下と復原性の向上を目指して、側面が開放状態であった車両甲板両舷側の中央部に従来からあった小さなボイラー室囲壁を舷側外板面と船尾方向へと拡張し、ボイラー室、ポンプ室、主機室へ繋がる水密区画として予備浮力として復原力増大を図った他、操舵室屋根上に前部マストと後付けのレーダーポストが別々に立っていたのを1本のマストにまとめ、後部マストも低くして煙突上部も細く改造して重心の低下を図った。

そして車両甲板船首の自動連結器付き車止めを5.95m船尾側へ移動して船内軌道を短縮し、乾舷が低下するのを回避し車両甲板へのレール固定を『第3宇高丸』と同じく溶接による固定とした。

また脱出路の確保を明確とする為、2・3等客室の出入口の増設や拡幅、3等客室角窓を拡大し非常時に脱出し易い構造に改造し、救命艇も軽金属製2隻に変更、懸架するボートダビットはブレーキを外すことで救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットに交換した。

機関・機械部については、主発電機や蓄電池を増強し水密辷戸動力を直流化、車両甲板下の主機室や船員居室の電動通風設備増設を行い、常用照明は全て蛍光灯化して増灯し照度の向上を図った。そして主発電機が故障しても通信系統や水密辷戸が稼働可能で、船内の非常灯を3時間にわたり点灯出来る鉛蓄電池を装備した。

その後、1958年(昭和33年)7月には、燃料供給の省力化や黒煙防止にもなるボイラーのC重油専燃化改造が行われたことで車両甲板上の石炭積込口は廃止されることになり、ここから浸水する危険性は皆無となった。

 

1度目の『紫雲丸』事故後の1950年(昭和25年)4月1日に施行された基準航路では、高松港付近で上下航路が近接し右側通航が徹底されていなかった為、2度目の事故はまさにこの区間で発生している。そこで5度目の事故直後より沈没した『紫雲丸』を中心に高松港付近の上下航路の間隔を広げ、新航路の掃海作業等を実施、1955年(昭和30年)11月1日より正式な基準航路とし上下完全分離の航路を規定した。

 

事故の影響と『紫雲丸』のその後

この事故は前年に起きた『洞爺丸』事故と相まって旧国鉄に大きな教訓を与え、前述の様に連絡船の船体構造の全面的な見直しが実施された。またこれに伴い、従来行われてきた連絡船による(乗客を輸送中の)客車の搬送が完全に中止されたのである。

更に、『洞爺丸』事故に引き続いて事故が立て続けに発生した事に対し旧国鉄の長崎惣之助総裁が引責辞任し、後任には十河信二氏が就任した。また組織見直しが行われ、当該航路を所管する国鉄四国支社(後の四国総局)には新たに宇高船舶管理部が設置された。それからこの事故以降は、海上保安部による停船勧告基準が厳しくなった為に、同様の原因による海難事故は減少したとされる(後ほど、本四架橋に関連して再度触れる)。

またこの『紫雲丸』事故の報告を聞き、昭和天皇から事故の犠牲者及び被災者へ向けて金一封が特別に下賜されている。

『紫雲丸』は事故後にサルベージ作業により引揚げられ、修理・復旧後に再就役しているが、5回目の事故後の復旧再就航時には度重なる事故を嫌ってか、1955年(昭和30年)10月11日を以って『瀬戸丸』と改称され、外舷色も黒から黄緑色に変更し11月16日に再就航している。

瀬戸丸

もともとこの船の名前は高松市にある「紫雲山」に因んでいたが、実は「紫雲」という言葉には「臨終時に仏が乗って迎えに来る雲」という意味があり、この船名の「紫雲」は「死運」に通じるなど語呂も良くないとされ、既に就航時から「死運丸」と揶揄されていたとも云う。

そこで5回目の事故後に『瀬戸丸』と改められたのだが、しかしそれでも事故は止まず、1960年(昭和35年)には『中央栄丸』と高松港入口付近で衝突して『中央栄丸』が沈没する事故が起こっている。その後、1966年(昭和41年)3月30日で終航した『瀬戸丸』は宇高連絡船を引退し、一部解体の後、船体は宇品で浮きドックとして使用されていたが、1991年(平成3年)になり完全に解体された。

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