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【国鉄三大怪事件 -1】下山事件の謎 第1回 〈1031JKI51〉

事件を報じる朝日新聞紙面

国鉄三大怪事件国鉄三大ミステリーとは、未だ連合国軍の占領下にあった戦後間もない我国・日本において、昭和24年1949年)の夏に相次いで発生した日本国有鉄道(国鉄)にまつわる三つの事件(『下山事件』・三鷹事件』・松川事件』)のことだ。

筆者の周囲でも、比較的年少の方々はこれらの事件のことをご存知ないようであり、我が探偵団主催の“昭和史発掘 勉強会”でもよく質問の的(まと)となる。そこで本稿を初回として、この三大怪事件にまつわる謎の顛末を順次、簡単に解説していきたいと思うが、各事件発生の時系列に沿った形で、『下山事件』・三鷹事件』・松川事件』の順に取り上げていこうと考えている。

尚、読者諸氏には長文となる為に複数回に分載することを了承願い度く。それでは第1回目として、『下山事件』関係の記事連載のイントロ的な形で、事件の概要と背景について述べていこう。

 

事件の概要

さて『下山事件(しもやまじけん)』とは、昭和24年1949年)7月5日朝、就任後間もない国鉄初代総裁であった下山定則(しもやま さだのり)氏(当時49歳)が出勤途中に失踪し、翌6日未明に東京都内の常磐線の線路上で轢死体となって発見された事件であり、今でも戦後史に名を残す未解決事件の一つにこの事件を挙げる人は少なくないとされている。

下山定則 総裁

それは、昭和24年(1949年)7月6日未明(詳しくは午前0時25分)に、東京都足立区五反野南町の国鉄常磐線と東武伊勢崎線が交差する高架橋・常磐線五反野ガード下付近(現在の綾瀬付近)の線路脇で一人の轢死体が発見されたことに端を発する。間もなく死体の主は当時の国鉄総裁・下山定則氏であると判定されが、これが後に『下山事件』と呼ばれた戦後最大級の怪事件の幕開きであった‥‥。

初動捜査の結果、前日の7月5日の午前9時30分過ぎ、下山総裁は出勤の途上、国鉄本社に向かう前に公用車を待たせたまま百貨店・三越日本橋本店に立ち寄り、そのまま謎の失踪を遂げた事が判明した。

 

この事件は、発生直後からマスコミはおろか一般社会においても自殺説・他殺説が入り乱れ、両説に関する際限のない論争を巻き起こしたが、やがて事件を担当した警察(警視庁)は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切ったのだった。

以後、半世紀にわたって数え切れないほどの推論や主張がメディアを中心に展開されてきたにも関わらず、現在でも、誰しもが納得する真相の解明は成されていないのである。尚、本件は昭和39年(1964年)7月6日に殺人事件としての公訴時効が成立し、未解決事件となった。

またマスコミでは既述の通り、この『下山事件』と同事件から約1ヶ月の間に相次いで発生した国鉄関連の『三鷹事件』や『松川事件』を合わせて、“国鉄三大怪事件(国鉄三大ミステリー)”と呼んでいる。

※『三鷹事件とは、1949年7月15日、『下山事件』の10日後に東京の三鷹駅構内で起こった無人列車暴走事件のこと。

松川事件とは、1949年8月17日、福島県の東北本線・松川駅~金谷川駅間で発生した列車の脱線・転覆事件で、容疑者たちは逮捕・起訴されたが、全員が無罪となった。

※殺人などの凶悪犯罪の公訴時効の期間は、平成17年(2005年)1月1日に15年から25年に延長され、更に平成22年(2010年)4月27日に即日施行された改正刑事訴訟法において廃止となった

 

事件の背景

事件発生当時の昭和24年1949年)頃は、未だ我国が連合国の占領下にあった時期で、この日本国の統治はGHQに委ねられていたが、戦後もこの頃(1949年)を迎えると、中国大陸における国共内戦での趨勢は中国共産党軍の勝利が決定的となり、彼ら共産党がほぼ中国全土を掌握する勢いであった。一方、朝鮮半島においても北緯38度線を挟んで李承晩の親米政権と金日成の社会主義政権の南北両国家が一触即発の緊張下で対峙しており、また欧州では東西両ドイツの対立が深刻化していた。即ち、この昭和24年1949年)という年は、まさしく米ソの冷戦構造が明確化した時期であったと云えよう。

この様な国際情勢のもとで日本の統治を担っていたGHQは、対日政策の骨子を従来の民主化優先のものから反共の為の防波堤国家の建設へと方針転換したのであるが、その為には早急に日本を西側・資本主義陣営の一員として自立させる必要があった。しかし当時の我国は物価上昇率60%という超インフレ経済下にあって、とにかくこの経済状況を安定させることが何にも増して先決であると考えられた。

※GHQとは、連合国軍最高司令官(SCAP)総司令部のこと。我国では総司令部(General Headquarters)の頭字語であるGHQや進駐軍総司令部という通称が用いられた。極東委員会の下に位置し、日本の占領政策全般を遂行した組織である。その職員にはアメリカ合衆国の軍人や民間人が多数おり、他はイギリスの軍人やオーストラリアの軍人らで構成されていた。SCAPには、昭和20年1945年)8月14日にアメリカの軍人であるダグラス・マッカーサー元帥が就任、1951年(昭和26年)4月11日にアメリカ合衆国のトルーマン大統領がマッカーサーを解任した後、アメリカ軍のマシュー・リッジウェイ中将が同職に就いたが、翌昭和27年1952年)4月28日のサンフランシスコ講和条約発効と共にGHQは活動を停止した。

そこでGHQは、先ずはこのインフレ経済の是正を急ぐ事とし、所謂(いわゆる)『ドッジ・ライン』に沿った緊縮財政策を実行した。そしてこの政策の一環として大幅な財政支出の減少・経費(人件費)節減を目的に徹底した人員合理化を目指し、同年6月1日には行政機関職員定員法が施行され、全国すべての公務員を対象に約28万人強、更に同日(1949年6月1日)に発足した日本国有鉄道(国鉄)に関しては約10万人弱(9.5万人)の極めて大量の人員整理が要求されたのである。

※ドッジ・ラインとは、昭和24年1949年)2月に、日本経済の自立と安定との為に実施された財政金融引き締め政策。その名称は、当時、GHQの経済顧問であったジョゼフ・M・ドッジが立案し勧告したことに由来。この政策の断行により深刻な不況(安定恐慌)が発生し、企業に対する融資は大幅に絞られ倒産や合理化による失業者の増大などを招き、社会不安を激化させた。しかしインフレ収束には成功して黒字財政をもたらし、何とか日本経済を再建することが出来たとされる。

※GHQの真意は、予算の大幅削減と人員整理による合理化を図ることで、国鉄労働組合等を始めとした有力・大規模労働組合などの弱体化を実現して日本国内の左派勢力(赤化)を押さえ込む事にあったとも考えられている。

日本国有鉄道(国鉄)は、政府が100%出資する公社(特殊法人)であり、いわゆる三公社五現業の一つであった。国の事業体として1949年6月1日に発足した日本国有鉄道は、当時の運輸省の外郭団体でもあった。後に分割民営化により、政府出資の株式会社(特殊会社)形態のJRグループ各社および関係法人に事業は継承され、現在に至る。

※終戦後、旧国有鉄道(後の国鉄)は戦災で壊滅状態に陥っていた民間の企業に代わって雇用創出の受け皿としての数少ない事業体の一つと考えられていた為に、戦地からの復員者や外地鉄道からの引揚者などを積極的に雇用したことで膨大で且つ過剰な人員を抱えた姿となっていた。

※行政機関職員定員法(1949年5月31日成立)により、国鉄に関しては60万4,243人(1949年3月末現在)の職員の内で9万5,000人を整理解雇し1949年10月1日時点の職員数が50万6,734人を超過しない、とする方針が定められた。

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