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【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (前編) 〈1031JKI51〉

16時00分頃~17時00分頃

その後、函館桟橋付近においては、16時頃の気圧は985.2ミリバール、雨を伴う東風10~15メートルを観測した。17時になると、気圧は982.6ミリバールだが風力は急速に弱くなり、雲間に太陽が見え、瞬時、台風の中心(眼)に入ったような様相となった。風速も15時に19.4メートルに達したのち衰えており、17時には17.3メートル、18時にはさらに13.7メートルに弱まっていく。

実際には、事故から2年後の1956年(昭和31年)12月の気象庁発表の「昭和29年台風第15号報告」では、この時に台風の眼と思われた晴間は台風に随伴して発生した閉塞前線による「まやかし」であり、現実には台風の目ではなかったのである。それまで時速110キロで北上していたこの台風は、渡島半島西方海上で毎時40キロにまで急速に速度を落としながら、勢力を960ミリバールにまで発達させるという信じられない状況を引き起こしていたのだった。

ちなみに、当時はまだ気象衛星を活用しての台風観測は始まっていない上に、北海道の日本海側の海上レーダーは未整備であった。つまりレーダーでの観測データもなく、気圧と風向き(及び経験値)だけで台風の進路と速度を推定していたのである。

伝えられていた時速110キロの猛スピードで北上する当該台風のスピードからすれば、近藤船長の下した、乗客を乗せての出航待機の措置は妥当だとも言えた。可能な限りの定時運行を追求する国鉄としては、他の定期旅客船とは異なり、天候の回復次第で出航するのは当然であり、そしてこの時、凾館の気象台関係者も含め、誰もが台風は瞬く間に北方の海に過ぎ去って行くと考えていたに違いない・・・。しかし実際の台風第15号は、彼らの予想に反してずっと遠方に位置していたのだった。

 

17時40分

気象状況を検討した結果、天候は回復基調であると考えた近藤船長は出航を決断して、17時40分に出航は18時30分とすると発表した。その後、18時になると晴間は去り空は暗くなってきたが、まだ風雨は小康を保っていた。

その当時の函館港では、巡視船りしり、連絡船の第六青函丸、第十一青函丸、北見丸、商船第六真盛丸、第四南興丸、富貴春丸等が天候の回復待ちをしており、青森側でも連絡船渡島丸及び羊蹄丸が出航を見合わせていた。

 

18時25分頃~18時39分

午後6時25分頃には、洞爺丸船長は一旦決定した通り、出港する形で準備を続けていた。また丁度その頃、函館第2岸壁が空くのを待って約2時間にわたり防波堤の外で待機していた1201便石狩丸が、曳船5隻の力を借りてようやう着岸しようとしていた(係留作業の完了は18時40分)。

そして洞爺丸はこの石狩丸の着岸をほぼ見届ける形で、入れ替わりに遅れ4便として約4時間遅れの18時39分に函館第1岸壁を離岸、一路、青森港に向け出航したのだった。乗員・乗客は合計で1,314人(1,337人との史料あり)、鉄道車両が12両(重量約313トン)並びに郵便物171個を積載していた。

この時、船首水倉、そして第一と二番水倉を空にし、第三、四、七及び船尾水倉を満水にした。また第五番水倉に約105トン、第六番水倉に約15トンの養缶水を保有し、舷側水倉右舷側が約60トン、左舷側が約40トン、喫水は船首で約4.55メートル、船尾では約5.05メートル、船尾における乾舷は約1.75メートルで出港したという。

その後、18時53分頃には函館港第二号灯浮標を左舷に確認しながら航行し、防波堤西出入口に向かった。しかし防波堤に近づくにつれ急に波浪が強くなり、洞爺丸は風上に回頭する。

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