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【漢詩の愉しみ】 題不識庵撃機山図《不識庵機山を撃つの図に題す》(川中島) 頼山陽 〈3817JKI11〉

ところでこの漢詩創作の由来としては、歴史家でもあった作者の頼山陽(後述)が多くの史書や軍学書・軍記物(後述)を参考に自筆の『日本外史』(当該の上杉・武田両家に関する記述は多く見られますが、特に上杉謙信の高潔な人柄への評価が高い様です)の記述に沿った形で謙信の胸中に同情する立場で詠ったとされていて、同時代に活躍した勝川春亭の浮世絵『信州川中島合戦之図(川中島大合戦)』(武将名や外題がない)などからの影響もあり得ますが、著名な歌川国芳の浮世絵(錦絵)『川中島大合戦』等に触発されて詠んだとの説は年代的に誤り(同絵等は山陽の死後に完成)の様です。

※勝川春亭は、生年不詳で文政7年11月9日(1824年12月28日)に亡くなった江戸時代後期の浮世絵師。寛政から文政の頃にかけて多くの錦絵を描きましたが特に武者絵が有名。その他には読本や黄表紙草双紙なその挿絵も数多く手掛けました。

※歌川国芳は、寛政9年(1798年)に誕生、文久元年(1861年)に亡くなった江戸時代末期の浮世絵師。文政10年(1827年)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』連作ものが評判となり人気絵師の仲間入りを果たしました。“武者絵の国芳”と称されながらも、その作画対象は多岐にわたっています。勝川春亭を師としたこともあり、また面識のあった葛飾北斎の影響も受けているとされます。

また『甲越信戦録』等によるとこの名場面は、「萌黄の胴肩衣着たる武者が白手拭で頭を包んで放生月毛に跨がり、三尺ほどの名刀“小豆長光”を振り上げた騎馬武者が、床几に座した武田信玄に三太刀にわたり斬りつけとところ、これを信玄が軍配団扇をもって受け止めた。そして信玄の御中間頭であった原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の乗馬を突くと、騎馬武者はその場から走り去ったが、後にこの武者が上杉謙信であることが解った」と語られていますが、まさに漢詩『題不識庵撃機山図』が描く世界そのものだと云えます。

※『甲越信戦録』は、江戸時代後期の文化7年(1810年)以降に書かれた作者不詳の軍記物作品です。武田側の『甲陽軍鑑』や『武田三代記』、また『北越軍記』・『本朝三国志』等や『川中島評判記三巻』・『諸家見聞記二十巻』などを参考とした上に、更に川中島地方に伝わる数々の伝承を基にして執筆されています。

※この時の謙信の佩刀は、“小豆長光”以外に“肥前国吉”や“竹俣兼光”ともされます。また現存する彼の愛刀とされる太刀の多くに使用の痕跡が残されており、実際に戦場で使われた可能性が大であると考えられています。

ちなみに『甲陽軍鑑』でもほぼ同様のことが記されていますが、信玄は座ったままではなく立ち上がって戦ったとされ、更に上杉側の史料である『北越軍談』や『北越太平記』(『北越軍記』)では、一騎討ちが行われた場所を御幣川(おんべがわ)の川の中としており、そこでは信玄・謙信双方ともに騎乗にて戦っており、また信玄は軍配でなく太刀を使い、その後、手傷(肩先2ヶ所とも)を負いて退いたとしています。また異説(『上杉家御年譜』や『河中島五箇度合戦記』など)では、実際に信玄に斬りかかった上杉方の武将は、謙信の近習・荒川伊豆守だったとされています。

しかし、上杉軍の総大将である謙信自らが突出して敵陣本営に斬り込むというこの大胆な設定は、実際には後世の創作(『甲陽軍鑑』や『北越軍談』等は、後年になり口伝を基に編まれた軍学書/軍記物であり、信憑性や正確性に乏しい既述も多いとされる)と考えられているのですが、謙信と親交のあった従一位・元関白の近衛前久が謙信へ送った書状には、(謙信から伝え聞いたことに対する返答として)この合戦で謙信自らが太刀を振ったことに関する記述(「珍しからざる義」との表記から、よく謙信自ら太刀を手にして敵兵と戦っていたらしい)があり、現実にも相当の乱戦であったことは確かとされています。

更には、あの天海僧上が謙信と信玄・両雄の対戦を目撃していたとの話も伝えられていますが、ここに至っては甚だ法螺話の域を出ない都市伝説的な伝承としか考えられません。

※『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん)とは、甲斐国の戦国大名であった武田氏に関わる戦略・戦術を記した軍学書のことです。武田信玄やその他の武田家の武将や家臣団の逸話や事跡を紹介、また軍学以外にも武田家の儀礼に関する記述などが豊富に記されています。原本は存在せず複数の作者によるとされていて、最終的には小幡景憲の編により成立しました。甲州流軍学の教典でもあります。

※『北越軍談』は江戸時代の軍学書で、著者は『関東古戦録』を著した槇島昭武とされ元禄10年(1697年)頃に成立しました。その内容は越後上杉氏に関する軍記で、謙信や景勝期に関する事績や上杉家臣団に関連する記述が豊富に含まれています。また『北越軍談』は、宇佐美定祐(『河中島五箇度合戦記』の作者)の創始した越後流軍学の教本でもあります。

※南光坊天海は、天文5年(1536年)に生まれ、寛永20年10月2日(1643年11月13日)に亡くなった、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の政策に深く関与した人物です。100歳を優に超える大変な長寿で、その元の姿は明智光秀であったとの珍説も。

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