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《江戸の三大道場》桃井「士学館」の巻、え~ぃ!! 〈25JKI37〉

幕末、江戸の三大道場を紹介するシリーズの最後を飾るのは、「位の桃井」と言われた鏡新(心)明智流桃井春蔵の「士学館」です。主な門弟には、士学館四天王といわれた上田馬之助や阪部大作などの他に、土佐藩の武市半平太(瑞山)や岡田以蔵らがいました・・・。

 

「士学館(しがくかん)」は、桃井直由(初代 桃井春蔵)が開いた鏡新明智流の道場です。安永2年(1773年)、直由が日本橋南茅場町(現 中央区日本橋茅場町)に開設し、後を継いだ養子の桃井直一(2代目 桃井春蔵)により南八丁堀大富町蜊河岸(現 中央区新富)に移転(「あさり河岸の士学館」)しましたが、茅場町の道場は長屋を改造した粗末な道場であったと云います。

初代の直由は、芝神明宮(芝大神宮)に自画自賛の額を掲げたところ、近辺の直心影流長沼道場らの他流派から次々に試合を申し込まれました。直由は病気を理由に断り、代わって試合を受けた養子の直一も度々敗れた為、江戸市中には士学館の悪評が広まり、件の額に「士学館弱し」の張り紙をして嘲笑う者もいたといいます。

その後も他流派からの排斥や嫌がらせは続きましたが、ところが逆にこの状況に同情する人々が続々と士学館に入門し竹刀打ち中心の稽古も好評を得て、門人の数が増えていきました。

しかし文政2年(1819年)に直一が死去すると、実子の直雄が3代目 桃井春蔵を継いだのですが、以降、士学館の道場経営は再び行き詰まっていきました。

低迷期の士学館の逸話としては、文政13年(1831年)には神道無念流の「練兵館」と交流試合をしましたが、結果は士学館の惨敗。名目は親睦試合でしたが、当時、弟子の取り合いで両道場は一触即発の緊張関係にあったため、立会人として北辰一刀流の千葉周作とその弟の定吉が多くの門弟とともに会場警備を行い、この千葉一門の尽力で無用な衝突は避けられて、事無きを得ています。

嘉永5年(1852年)に直雄が死去し、婿養子の直正が4代目の桃井春蔵となります。この直正の代で士学館は再び盛り返し、「技の千葉」(北辰一刀流・玄武館の千葉栄次郎)、「力の斎藤」(神道無念流・練兵館の斎藤新太郎)と並び、「位の桃井」そして「品格随一」と称され、幕末江戸三大道場の一つに数えられました。

この直正は、文政8年(1825年)に生まれ明治18年(1885年)12月3日に亡くなりました。旧姓は田中、幼名は甚助で通称は左右八郎といいます。23歳で鏡新明智流の免許皆伝、25歳にて奥伝を授けられました。

 

安政3年(1856年)8月、土佐藩から武市半平太(瑞山)が、藩の臨時御用として江戸での剣術修行の為に岡田以蔵や五十嵐文吉らを伴って出府、士学館に入門しました。

武市123taketi武市の剣術の腕前と人物を高く評価した直正は、まもなく武市に免許を与え塾頭に任じました。そして武市は、乱れていた道場の風紀を質し門人たちを指導してその気風を改めさせました。しかし安政4年(1857年)9月には老祖母の病状が悪化したので土佐に帰国し、翌安政5年(1858年)に土佐藩から一生二人扶持の加増を受け、剣術諸事世話方に任じられました。

この様に、残念ながら武市が士学館に籍を置いて活躍した期間は極めて短かったということになりますが、他にも土佐藩出身者の門弟が多く、田中光顕(浜田辰弥)や山本琢磨(沢辺 琢磨)などが門下に名を連ねています。

 

一方、直正の方は、文久2年(1862年)には幕府から与力格(扶持二百俵)に抜擢されて、幕臣として翌年には講武所剣術教授方出役に登用されます。

またこの頃の士学館の高名・威風を示す逸話が残っています。慶応元年(1865年)12月の末頃、稽古納めを終えた桃井と弟子8名ほどが市谷田町を歩いていると、新徴組の隊士たちと遭遇し、彼らが桃井たちへ道の片側に寄れと凄んだため、高弟のひとりであった上田馬之助が一喝すると、隊士たちが抜刀し、あわや斬り合いとなりかけました。

そこで桃井が「私は公儀与力で講武所教授方桃井春蔵である。またここにいるのは士学館の門弟であるが、どうしてもご希望ならばお相手するが・・・」と言うと、直ちに新徴組の面々が謝罪して喧嘩は収まったといいます。

 

慶応3年(1867年)、直正は幕府により遊撃隊頭取並を命じられ、将軍徳川慶喜の上洛に警護役として同行し、また大坂玉造の臨時講武所の剣術師範も兼務します。しかし同年、戊辰戦争開戦派の幕府家臣団と対立して幕府軍を離れた後、開戦派に命を狙われた直正と士学館の高弟数名は南河内の幸雲院という寺に身を隠しました。

その後、翌慶応4年(1868年)1月3日には鳥羽・伏見の戦いが始まりましたが、その結果は幕府軍の惨敗。徳川慶喜は多くの家臣を残して江戸へと軍船で敵前逃亡してしまい、幕府軍の一大拠点大坂城は炎上し、京坂地区は新政府軍に占領されてしまいました。

同年5月、直正は幕府軍の彰義隊からの入隊勧誘を断り、逆に新政府軍からの要請で天満川崎(現 大阪市北区)の川崎東照宮(建国寺)境内に剣術道場を開き、大坂の治安維持に当たる薩長土肥出身の兵士たちに撃剣を指南しました。そしてこの後は、江戸に帰ることなく大阪で暮らします。

以後、大阪府の設置により府兵局の監軍兼撃剣師範となり、新たに編成された府兵、浪花隊(浪華隊)の実質的な指揮官を兼ねます。同時に、北桃谷町(現 大阪市中央区)に士学館を再興しました。また明治2年(1869年)には浪花隊の隊員数は600名を数えましたが、翌明治3年(1870年)には兵制改革により浪花隊は解散されます。

その後、直正は大阪府権大属を務めた後、明治7年(1874年)10月に堺県の等外官となり、応神天皇陵・仲姫皇后陵の陵掌を務めました。更には明治8年(1875年)に誉田八幡宮の祠官(しかん)となり、境内に道場を開設しました。そして明治17年(1884年)11月には大阪府御用掛剣道指南方に就任しますが、翌明治18年(1885年)にコレラが原因で病死しました。享年61歳。

 

晩年の直正は、誉田八幡宮の神官として穏やかな余生を送っていましたが、ある時、襲いかかってきた強盗3人に反撃して逆に大和川に投げ込んだり、狩猟中に誤って応神天皇陵に向けて発砲した大阪府の知事を引っ捕まえて大音声(だいおんじょう)で叱りつけるなど、幕末の大剣豪らしい豪快な逸話も残しています‥‥。

-終-

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