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【大坂の陣・外伝】 徳川家臣団ヤンチャ一番、水野勝成で御座る!! 〈25JKI28〉 

元和元年(1615年)に行われた大坂の陣の論功行賞では「戦功第二」(「第一」は松平忠明)とされて、大和郡山に3万石を加増された合計6万石で転封された。この移封は旧豊臣領に睨みを効かす為にとられた処置だが、与えられた石高が実際の勝成の戦績・戦功と引き比べて過小な評価だと思う人々は多かった様だし、勝成自身も少なくとも10万石以上の所領を期待していたとみられるが、意外に少ない恩賞の背景には家康の厳命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦闘に従事したことがあったともされている。

一旦、この処遇に立腹した勝成であるが、徳川秀忠(秀忠と勝成は乳兄弟の間柄)が勝成を宥(なだ)めて、家康の隠居後には必ず10万石以上の知行を与えると約束したという伝承が水野家側には伝わっている。

 

元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い秀忠から大和郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山に10万石の領地を与えられた勝成は、殖産興業に努め藩の財政を強化した。寛永7年(1630年)には全国初ともされる藩札を発行する。また特に新田開発に注力、福山藩は表高10万石に対して実際には15万石以上(一説には30万石)もの石高となっていた。

更に治水工事や鉱山開発、タバコの栽培なども積極的に奨励していたとされる。即ち彼は、武闘派の一面のみがクローズUPされているが、政治家としてもその活躍と実績は一流であったと云えよう。また意外にも勝成は文学が好きで、特に俳諧を好んだ。能楽好きであり連歌や和歌もよく嗜み、自ら作歌詠吟もしている。

寛永15年(1638年)初頭、幕府から島原の乱(乱自体は前年に勃発)鎮圧への出陣を要請された勝成であるが、これは老齢(当時75歳)にもかかわらず彼の歴戦の実績を評価しての事であり、勝成率いる福山藩水野家の軍勢は約5,600名で、九州の諸藩以外からの唯一の参陣であった。

水野勝成は一貫して副将格の戸田氏鉄等の兵糧攻めの方針を廃して積極攻撃を主張したが、結局、討伐上使の老中・松平信綱は勝成の具申通りの策を採用して総攻撃を実施した。

また『常山紀談』によると、この時、天草四郎以下のキリシタン一揆軍の篭もる原城の本丸への一番乗りを、勝成の子の水野勝俊と有馬康純の嫡子・有馬直純が争ったと云われている。

島原の乱平定の翌年、寛永16年(1639年)に家督を嫡子の勝俊に譲り自身は剃髪して隠居、宗休(一分斎とも)と号した。その後、慶安4年(1651年)に福山城内において死去、福山城下の菩提寺・賢忠寺に葬られた。享年は88歳であった。

また勝成を祖とする福山藩水野家は、5代目の勝峯がわずか2歳で没したことで元禄11年(1698年)に無嗣改易となったが、同年には勝成の曾孫となる水野勝長に対して能登国西谷藩(1万石)として再興が許され、元禄13年(1700年)以降は下総結城藩1万8千石の大名として存続した。

尚、血は争えないもので、後年、旗本奴の代表的人物の一人に挙げられる、通称の十郎左衛門で知られる旗本・水野成之(みずの なりゆき)は、勝成の孫に当たるのだった。彼の父・成貞(つまり勝成の子)も傾奇者であり初期の旗本奴だったが、十郎左衛門はメチャクチャな暴れん坊であり、所謂、旗本の愚連隊(大小神祇組/白柄組)を率いて町奴(町人の傾奇者)と激しく対立・抗争を繰り返していた。最終的には町奴の大物・幡随院長兵衛を殺害した件で誅されて切腹、家名断絶となった。

 

更に最近では、当時の著名な剣豪である宮本武蔵が大坂夏の陣において水野勝成の陣営に属していたこと、即ち武蔵は徳川方で戦ったことが有力視されている。以前は、武蔵は豊臣方の牢人募集に応じて参陣したというのが通説だったが、勝成の陣備えを記録した史料『大坂御陣之御供』の中に、宮本武蔵の名前が載っているとされる。

水野家の家老であった小場家の文書である『大坂御陣御人数附覚』での夏の陣での水野勝成勢の総陣容は、「総御供騎馬二百三十騎、総御人数三千二百人之由」となっていて、侍大将は中山外記、そして御供騎馬武者の中に“作州様”附(身辺護衛=ボディーガード)の10人の侍の4番目に宮本武蔵の名前があった。ちなみにこの“作州様”とは勝成の嫡男、美作守勝重(後の勝俊)のことである。

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