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《ファンタジーの玉手箱》 幻術剣士、松山主水の正体とは? 〈2354JKI40〉

主水は忠利の命によって八代城に赴き、荘林十兵衛を通じて三斎に謝罪を申し出ましたが、目通りが叶いませんでした。仕方なく主水は一旦城下に下がって、町外れの松江村の光円寺に滞在して三斎の許しを待つことにしました。一説には、忠利から当面は光円寺に隠れておれ、との指示があったとも云います。

 

しかし、その年(寛永12年)の10月、主水は光円寺で折悪しく病臥中のところを、三斎の指図を受けた荘林十兵衛によって謀殺されてしまうのです。

訪問して来た十兵衛は案内の小姓の後から付いてきて、小姓の止めるのも聞かず病間に飛び込むと、いきなり布団の上から主水を刺したとされます。流石(さすが)の主水も病気のために意識が朦朧としており、相手の刃を防げなかったのでしょう。

しかし主水は「卑怯っな!」と叫んで、手ぬぐいで刺された腹部を抑えながら枕刀を手にしますが、既に全身は血まみれで、立ち上って応戦することが出来ませんでした。

討った側の十兵衛も動転してか、ひと息入れるために庭に面した手水鉢の水を飲もうとしているところを、主人の仇に一矢報いようと主水の小姓が後ろから斬りつけ、たまらず庭に転がり落ちたところをすかさず飛びかかって二の太刀で止めを刺したのです。異説には、瀕死の重傷を負った主水が、「心の一方」を遣って十兵衛を瞬時に金縛りにしたところを小姓に討たせたのだ、とも云われます。

十兵衛の死を見届けた主水は、小姓に対して「よくぞ、でかした」と笑って息絶えたと伝わり、更に、いまわの際(きわ)に駆け付けた門弟に対して「荘林十兵衛、儂を襲うとは天晴な奴じゃ。丁重に葬ってやれ」と語ったとも。

主水の墓はありませんが、光円寺に五輪の塔が建てられたそうです。また、荘林十兵衛の墓は八代の盛光寺に現存しています。

主水の死後、十兵衛を討った小姓(桑田慎之介とも)も荘林家の家臣に探し出されて命を取られます。逆に十兵衛の子、荘林半十郎も、翌寛永13年(1636年)7月に槍で突き殺されてしまいましたが、下手人は不明のままでした。こうした両派の報復合戦に関して、事態を重く見た忠利と三斎は、直接対面して事件の収拾を図ったとされています。

こうして松山主水の秘儀「心の一方」や「十文字」の奥伝は誰にも相伝されることはなく、二階堂流平法の秘伝は、まさしく永遠の秘儀となったのでした。

 

さて主水の弟子、村上吉之丞は、前述の通り藩主忠利と共に「一文字」と「八文字」の秘伝を授かりましたが、主水の死によって奥伝「十文字」を伝授はされませんでした。一説には、吉之丞の粗暴な性格を危ぶんだ主水が、敢えて奥伝を授けなかったともされています。(粗暴さでは、主水も他人の事を言えた義理ではないハズですが・・・)

しかし、それでも吉之丞は抜群に強かったらしく、宮本武蔵が試合を拒んだのは主水ではなく、吉之丞だったという説(もっぱら講談等での話ですが)もあります。ところが彼はその後、細川忠利に従って島原の乱に出陣しますが、あっけなく討死してしまいます。

そこで新しい剣術師範役を細川家が探していたところに、なんと武蔵が選ばれますが、武蔵も島原の乱に出陣し石礫を受けて負傷しているのです。余談ですが、この人は単純な強さではなく、情報収集能力と冷静な分析力で幾多の決闘を生き残ったことは間違いないですね。先に述べた様に、自分よりも強い相手は巧妙に避けたことも、命を永らえた大きな理由なのでしょう。

また皮肉なことに、その後、二階堂流を継いだ者たちも、皆、武蔵の門弟となってしまったと云われています。ここに肥後細川藩における二階堂流平法は、実質上、絶えてしまうのでした。

-終-

【追加情報-1】
大吉主水の死の真相は、高熱を発し病に没したとされます。

【追加情報-2】
「心の一方」は、漫画『るろうに剣心』でも取り上げられたことがあります。架空のキャラクターで、主人公の剣心と敵対する怪人、鵜堂刃衛(うどう じんえ)の秘術とされています。

 

《ファンタジーの玉手箱》 幻術士、果心居士とは何者だ?・・・はこちらから

 

 

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