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【歴史ミステリー】 江戸隠密界のスターたち(3) 北方探検 間宮林蔵 〈2316JKI00〉

間宮1Mamiya_Rinzo間宮林蔵といえば我が国北方の探検家として有名な人だが、実際は公儀隠密として働いていた人で、シーボルト事件の契機を掴んだり密貿易の摘発などに関与したという。

彼の時代、江戸時代を通じて最も多くの隠密たちが活躍したとされていて、それまで浸入不可能とされた島津家薩摩藩にも幕府の隠密が入ることに成功したという・・・話もある(「蘇鉄問答」より)。

隠密であった間宮林蔵

間宮林蔵の場合、彼が隠密の仕事に就いていたことは決して推測や謎の話ではなく、史実の裏付けがある歴(れっき)とした事実である。

但し、隠密といっても、どちらかというと年代的に外国との関わりや北方未踏地の探検と測量、地図の製作といった、当時の幕府の立場での国益の観点から、我が国の海防に関する役割が中心であった様だ。

つまり、彼の幕府隠密的な役割と探検家の仕事は表裏一体であり、その兼務はさほど不思議なことではないといえよう。

間宮林蔵の生涯

間宮林蔵は、安永9年(1780年)に常陸国筑波郡上平柳村(現在のつくばみらい市)で農家の子として生まれたが、間宮家は戦国時代に後北条氏に仕えた間宮氏の末裔らしい。父、庄兵衛の唯一の子であり、名は倫宗(ともむね)で、蕪嵩(ぶすう)と号した。江戸時代後期の探検家として有名であるが、その実、幕府の隠密を務めた役人であった。近藤重蔵平山行蔵と共に「文政の三蔵」とも呼ばれる。

林蔵は、9歳の時には、村の専称寺にある寺子屋に通い、読み、書き、そろばんを学んだ。15歳頃まで上平柳で過ごした林蔵は、生家の近くの岡堰(関東三大堰のひとつ)の普請作業に加わった。そこで彼は普請役であった幕臣の村上島之丞に算術の才能を見込まれ、後に幕府の下役人となった。 この村上島之丞は、伊勢の出身者で地理に詳しく、測量技術にも秀でていたという。

寛政11年(1799年)、19歳の時には村上島之丞に随行して蝦夷地の調査・測量にも従事した。翌年には正式に幕府の蝦夷地御用雇となった彼は、箱館(現在の函館)で伊能忠敬に会い、伊能から測量術を詳しく学んだ。

そして享和3年(1803年)には西蝦夷地の測量を実施した。後年、林蔵が蝦夷地全土を測量した結果が『蝦夷図』となり、彼の測量結果が伊能忠敬の測量地域の不足分を補い、伊能の『蝦夷地沿海実測図』や『大日本沿海輿地全図』の完成に結び付いたともいう。

間宮林蔵は、天保15年2月26日(1844年)に、江戸の自宅で死去した。享年は65歳。林蔵が病死した後、彼の書物入れや柳行李、そして絵図面入れなどは幕府が回収してしまい、歴史上の貴重な資料が行方知れずとなったとされる‥‥。

樺太探検と間宮海峡

文化5年(1808年)には幕府(箱館奉行所)の命により、松田伝十郎と共に樺太を探検した。その際に林蔵は、樺太の北部にはアイヌ族とは別のオロッコ(もしくはウィルタ)と呼ばれる民族がいることを発見し、その様子を記録に残した。

また具体的な探査の方法として、松田伝十郎と二手に分かれて樺太の東岸と西岸を調査し、やがてどこかで行き会うことで樺太が島であることを確認しようとしたのだ。そこで伝十郎は西海岸を、林蔵は東海岸を小船で北上したが、東岸の海は大変荒れており、林蔵はシレトコ岬付近で北上を断念して樺太を横断、西海岸の松田と会合した。

伝十郎は、更に北へ進んでいて、潮流の状況や、対岸にシベリア(大陸)が遠望出来たことなどから樺太が島であると判断、探検を終えて南下したところで林蔵と再会し、二人は帰還した。

同年(1808年)、林蔵は松前藩の許可を得て、再度、単独で調査に向かったが、厳寒の為に中止せざるを得なかった。

林蔵は、翌文化6年(1809年)に充分な準備を整えて再度渡樺し、北方に向かった。現地の住民を案内人にとして、樺太の北端にあるナニオーに到着すると、西に向け海峡を渡り、シベリアへと上陸し黒竜江下流域を調査した。

一帯の海岸地帯を探索の後、ギリヤーク人に同行してアムール川下流のデレンの町を訪問し、極東におけるロシア帝国の動向を確認すべく周辺の探索を続行した上で帰還の途についた。

松前藩へ帰着後、この探検によって樺太が独立した島であり、大陸との間に海峡が存在していることを明確にし、アムール川やリーマン川の両岸を含む樺太地図を作成した。

また幕府に報告する為の、その探検の記録は『北夷分界余話』や『東韃地方紀行』となり、シベリアでは、ロシア帝国の支配は必ずしも万全ではなく、この周辺には清国人が多く進出しており、居住の諸民族の多くが清国へ朝貢している情勢が報告されている。

 

間宮林蔵の探検家としての最大の功績は、この間宮海峡を発見したことであろう。後に高橋景保を通じてこの地図を入手したシーボルトは、後に作成した日本地図で、この海峡最狭部を「マミヤ・ノ・セ ト(間宮の瀬戸:間宮海峡)」と名付けて、彼の功績を広く世界に紹介したのだった。同様に、蝦夷地西海岸の測量と樺太に興味を持っていたロシアの水路学者クルーゼンシュテルンも、林蔵の間宮海峡の発見とその測量結果について高い評価を与えている。

その後の隠密活動

樺太探検や蝦夷地測量の後、林蔵は文政11年(1828年)には勘定奉行、村垣定行の配下になり、幕府隠密として全国を対象に、もっぱら海防の仕事として異国船の渡来や密貿易の風聞を探索したり、外国と関係を持つ大名家や反幕勢力の動静を探るなどの活動に従事したが、天保6年(1835年)には松前藩士今井八九郎を伴って再び樺太を調査したともいう。

この様な林蔵の生き方を、まるで意外にも探検家が幕府隠密に転身したかのように解釈する向きがあるが、それは誤りである。

冒頭で述べたように、そもそも北方探検や未踏地の調査・測量と地図の製作そのものが国防の為であり、ロシアや清国などの外国に対する探索活動でもあった。彼の後半生は、単に諜報活動の対象地域が国内中心に変わったに過ぎないのだ。

余談ながら林蔵以前に、幕府が伊能忠敬に資金を援助して全国測量を許可した理由も、正確な地図の作成が異国船に対する海防に役立つと考えられたからといわれ、また測量を名目にして薩摩藩や長州藩など反幕外様大名の情勢を探索ができるから、といった目的もあったのだ。

 

間宮林蔵は、天保5年(1834年)55歳頃には水戸藩にも出入りし、徳川斉昭藤田東湖にも献策し、異国の知識や海防に関する意見を述べてもいる。

また、あの有名な幕末の勘定奉行、川路聖謨(かわじとしあきら)とも親交があり、川路も林蔵の北方に関する知識を重要視し、信頼もしていたようだ。そして、川路が交渉に臨んだ日露和親条約に関しては、林蔵の経験・知識に支えられて、日本側が交渉を有利に進めることが出来たという。

シーボルト事件

長崎出島の医師であったシーボルトの、その所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈ったとされた幕府天文方書物奉行高橋景保他十数名が捕縛され、その後、景保は獄死した。

そしてシーボルトは文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けたが、安政5年(1858年)の日蘭修好通商条約の締結により追放が免除となり、翌安政6年(1859年)には長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっている。

事件と間宮林蔵の関わりは、シーボルトが林蔵が蝦夷地で採取した植物標本を手に入れたくて、林蔵宛に丁重な手紙と布地を送ったことによる。しかし海防に関わる隠密でもあった林蔵としては、当然のごとく外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、シーボルトから届いた包みを開封せずに上司である勘定奉行に提出したのだ。こうして林蔵が規定通り届け出たことで、景保とシーボルトの関わりが明らかになったという。

この為、当時の関係者一同には、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。また、高橋景保と間宮林蔵の間には確執があったという説さえもあるくらいだ。

だが、林蔵の職務や立場からすれが当たり前の対応をしたに過ぎず、この通報は密告といった行為ではなかった。一国の警察官に、その国家機密の国外持ち出しに関する情報が伝わったとしたらどうなるだろうか? その情報の取り扱いに関して規定の通りに行動するのは、あくまで正義の行いであろう。

ところで、シーボルトに渡った地図は、幕府により流出前に回収された事になっている。しかしシーボルトが日本を退去した後、1832年にオランダで刊行された彼の著作『日本』では、樺太を含む『日本辺界略図』がオランダ語で掲載されており、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』などの地図の写しも持ち出されていたのでは、といわれている。

またシーボルトは高野長英から、医師以外の貴殿の仕事は何かと問われて「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えたと渡辺崋山が著わしているが、これは「コレスポンデントヴェルデ」と思われ、「内情探索官」と訳すべきものである。

つまり、彼は単なる医師ではなく、日本の文化や国情を調査するのが任務で派遣されたのだろうし、スパイの様な諜報活動というほどのものではなかったにせよ、調査・研究活動を兼ねていたのは間違いないだろう。

しかし前述の通り、後にシーボルトは林蔵のことを、幕府から自分が取り調べを受けるきっかけとなった人物であることを知っていたにも関わらず、樺太探検や間宮海峡を発見したことで、地理学上の偉大な功績をあげた人物として賞賛したそうである。

浜田藩密貿易(竹島)事件

天保7年(1836年)には、林蔵は公儀隠密として石見国浜田で密貿易事件の摘発に協力した。彼は浜田藩の密貿易の実態を内偵して掴み、大坂町奉行の矢部駿河守定謙に報告したのだ。

浜田は北前船の交易が盛んな港だったが、当時、財政難であった浜田藩(石高:6万石)の窮状を見かねた浜田の廻船問屋で藩の御用商人でもあった会津屋八右衛門は、浜田藩勘定方の橋本三兵衛などと組んで、密かに朝鮮のウルルン島(竹島)との間で密輸を行っていたとされる。

天保元年(1830年)から数年間で数十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩の財政は立ち直ったという。しかしそれも林蔵の調査で発覚し、八右衛門は死罪、浜田藩の家老、年寄などの重職者は切腹となり、藩主の松平周防守康任も永蟄居となった。また家督を継いだ次男の康爵の代に、浜田藩松平家は陸奥棚倉に国替えとなってしまう。尚、この事件は「竹島事件」と呼ばれている。

 

尚、間宮林蔵は大変な変装の名人であったそうで、アイヌから乞食まで様々な変装をしたという。浜田藩の密貿易内偵の際にも、商人となり回船問屋の会津屋へ潜入している。

林蔵は、「乞食に変装した時は、(着衣がボロなので)預かった活動資金を懐中に隠すのに苦労した」と後に述懐している。

また高橋景保の獄死の後、林蔵は次のように語ったともいう。「我死せば日頃秘蔵せる地図も洋人の為に齊(もた)らし去らる恐れあり。臨終の時にはこれを焚き棄つべし」と。

-終-

 

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