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【歴史ミステリー】 リンカーン大統領 暗殺の謎!? 《2》 〈248JKI54〉

(7)次に最大の謎といってもいいものが、犯人捜索・追跡の指揮を執ったスタントン陸軍長官の数多くの謎の行動である。

先ず最初に、犯人(少なくとも実行犯のひとり)は劇場で多くの人に目撃されているブースに間違いはなく、動機も南部を目指して逃走することも初動の段階で明らかであった。しかし当初、スタントンは犯人がブースだとは認めず、ブース以外の犯人を求めて捜査を実施しようとした。また当然、捜索・追跡などは劇場よりも(南部に向かう最短ルートの)南方を重点的に行うのが当たり前であるが、何故か、劇場よりも北方に重きを置いて警戒するように指示を出している。更に、ようやくブースを真犯人と定めて南方々面への追跡を指示したのは、実に事件発生から5時間も経ってからであった。そして手配写真を他人と取り違えたブースの手配書を大量に配布させたという。

そして何よりもギャレット農場で射殺されたのはブースではなかったという疑い(後述)のある中、一旦、軍艦モントーク号に置かれていたブースの死体は、スタントン長官の指令を受けた軍捜索隊のベイカーと情報局長ベイカー大佐により持ち去られてしまう。そしてワシントンD.C.に運ばれ、直ちに何処かに埋葬されてしまった。またこの件では、遺体を搬送したのはベイカー大佐に指示されたドハティ中尉だとする説もあり、また蚊帳の外に置かれたコンガー大佐は、ブース捜索・追跡に関する多くの事柄に関してベイカー大佐に偽りの情報を与えられていたとの話も伝わっている。

事件直後から世間では、「ブースは生きているらしい。モントーク号に運ばれた遺体は別人のものだ!」という噂が広まっており、そこでこのブース生存説をうけて、国会も調査委員会を組織し真相の究明に乗り出そうとした。ところが、この調査委員会の捜査が開始される直前の27日の夜、スタントン長官は「ブースが南部の人間たちの間で英雄(ヒーロー)となることを防ぐ為に遺体は秘密裏に埋葬した。当然乍らその場所は公表出来ない。」と発表したのだ。

いくら捜査・追跡の最高指揮官である陸軍長官とはいえ、大統領暗殺の犯人の遺体をろくに調査もせずに、独断で埋葬して、しかもその墓所の場所は教えられないというこの行動に周囲は憤然とし、大きな疑問を持ったが後の祭りであった。

しかしブースの遺体の在りかについては、1867年に(その頃、既にスタントン長官とは仲違いしていたとされる)ベイカー大佐が出版した著書の『諜報機関の歴史(A History of the Secret Service)』の中で、旧監獄の地下監房の床の下に埋めた、と暴露してしまう。そこで直ちにその場所の捜査が実施されたが、確かに誰かしらの遺体が発見されたものの、それがブースのものであるという証拠は見つからなかったという。

ところがスタントン長官の不審な行動はまだまだあったのだった。軍捜索隊がギャレット農場でブースの遺体を調べた時に、彼のポケットから一冊の手帳が発見されていたのだ。そしてそれはブースの日記であった。ところが後の裁判(軍法会議)では、ブースの射殺現場にいた軍捜索隊の隊員たちが、「ブースは日記を所持していた」と証言しているにも関わらずスタントン長官は初めそれを否定し、ブースの日記などは発見されていないとした。しかしスタントンは後になってこのことを撤回し、改めてブースの日記を証拠として提出した。ところがこの日記は、リンカーン暗殺当日の前後の期間に相当する24ページ(18ページとの説もあり)あまりが破り取られており、裁判での重要な証拠としては役に立たない代物となっていた。

また事件当時の政府側が、裁判の形態を軍法会議(軍事法廷)で実施することに固執した理由も不明確であり、そこにはスタントン陸軍長官の意向が強く反映されたともいう。こうして射殺されたブース以外の暗殺の共犯者8名は軍法会議で裁かれることになったが、この様に民間人の犯人に対して通常の一般裁判ではなく軍法会議が適用されることは尋常では無かった。そこでこの裁判に対して多くの非難の声が上がったにも関わらず、結果はあくまでも軍法会議として軍の管理下(判事も検事も弁護士も、皆、軍人である)で執り行われたのだった。

審理は7週間にわたり、366名もの証人が喚問された。判決は7月5日に下り、被告8名全員が有罪となった。メアリー・サラット、ルイス・パウエル、デイヴィッド・ヘロルド、ジョージ・アツェロットの4名が絞首刑を宣告され、サミュエル・マッドやサミュエル・アーノルド、そしてマイケル・オローレンには終身刑が言い渡され、エドマン・スパングラーは懲役6年となった。

この時、一部の証人が裁判の途中で証言を翻したという。あろうことか、スタントン長官が事件の目撃者であったルイス・J・ウイッチマン(Louis J. Weichmann)らを買収して裁判の結果を歪曲しようとした、として告訴されたりもしているのだ。

特にメアリー・サラットが死刑とされたことについては、その刑の重さに疑問が持たれたという。彼女は南部出身で、夫と死別後にメリーランド州からワシントンD.C.に移り住み、息子のジョン・サラットと共に下宿屋を開業していた。そしてブースら 犯人グループに、(積極的に関与したとする証拠は見当たらない中で)経営していた下宿屋をアジトとして提供していた罪に問われたのだった。

尚、この裁判での処刑者の絞首時の写真が隠し撮りされて残されており、今日では多くの文献でそれが紹介されている。

(8)更に、結局ブースを射殺したのが誰だったのかは解からず仕舞いだった。ブースが殺された時、彼の近くにいたのはコンガー大佐とベイカー、そして軍捜索隊のコーベット軍曹だった。コンガーもベイカーも互いにブースに発砲したことを否定したので、消去法で軍曹が射殺したとの判定に落ち着いたとされるが、極めてうやむやな中での結論であった。しかも、ブースの死亡時にコーベット軍曹はブースに対して正面から相対しており、ブースが後ろから至近距離で首を撃たれたことを考えると軍曹が射殺したとは思えないと、現場にいた当時の軍捜索隊の多くの隊員たちが証言しているのだ。

(9)またこの時に、先に投降していた共犯者のヘロルドは、運び出されるブースの遺体を見て「こいつはいったい誰なんだ? これはブースじゃないぞ!」と叫んだと伝えられている。しかし、この件は現在でも謎のままである。それは前述の通りスタントン長官の強引な指示で、ブースの死体とされる遺体は慌ててワシントンD.C.に運ばれた直後に、(何か重大な秘密を隠すかのように)早々に何処かに埋葬されてしまったからだった。

この為、事件直後から「ブースの遺体は偽物で、彼はどこかに逃げ匿われたのだ・・・」という噂が広まった。また以降、死の直前になって「実は俺が本当のブースだったんだ!」と告白した(死刑囚などの)人物が約40人にものぼったとされている・・・。

(9)この暗殺事件は、事件そのものにも不審な点が多いのだが、それ以外にも不思議な(まるで都市伝説といえる様な)話が語り継がれている。

ブースによる暗殺事件が発生する14時間も前に、ワシントンD.C.から遠く離れたミネソタ州セント・ジョゼフという小さな村で「リンカーン大統領が暗殺されたらしい!」というニュースがまるで真実のように伝えられたそうだ。そしてこの噂は、翌日の早朝にはニューハンプシャー州にまで広まり、やがてニューヨーク州ミドルタウンの地元新聞「ホイッグ・プレス」が記事を発表するという事態にまで発展してしまった。まだ実際の暗殺事件が発生していないタイミングでのこの新聞のフライング行為も、何故起こったのか未だに謎とされているのだ。そして事件後にこれらの噂の出所が調査されたが、不明のまま終わる。

そしてこの暗殺事件の多くの謎の中で最も奇怪な出来事は、リンカーン本人に起きたことであった。リンカーンは、当日、劇場へ同行する相手を陸軍省に誘いに訪問した時、付近にいた兵士に「私を殺害しようとしている者がいることを、君は聞いていないかね?」と尋ねたというのだ。また「本当は今夜は何処へも出かけたくないんだが、今更止める訳にもいかんな。劇場や関係者に迷惑を掛けるし、多くの者をがっかりさせるだろうから」とも言っており、なんとなく劇場へ行くことに関して不吉な予感を抱いていた模様だ。

更にリンカーンは、暗殺の数日前に悪夢を見ていた。それは、自身がホワイトハウスの中を歩いていると、何処からともなく多くの人々のすすり泣く声が聞こえてくるというものであった。彼が泣き声のする部屋に入ってみると、そこには棺が安置されており、人々はその棺を取り囲んで泣いていたのだった。彼が「誰か亡くなったのか?」と尋ねると、「リンカーン大統領が亡くなったのです。暗殺されたのです。」との回答であった。「それはどういうことだ?」とリンカーンは人々を掻き分けて棺の中の男の顔を見たところ、それは紛れもなく自分自身の顔だったのだ。その途端に目が覚めたリンカーンだったが、この恐ろしい夢の内容を夫人にも話したとされている。

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