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カーナビにも表示されない!茨城の巨大な謎の城 〈1549/3TFU29〉

筑波山の近くに、地図に載っていない巨大な城がそびえたっている!

そんな噂を聞いて、私は茨城に向かった。聞けば、白亜の天守閣が、どこからでも見えるような姿であるというではないか。茨城に、そんな大きな城郭などあるだろうか?まずは、筑波山の近くで江戸時代に藩がおかれていた場所から推測してみた。筑波山を中心に見て、周辺にあった藩と大名・石高を挙げてみよう。ちなみに石高は1868年(明治2年)の版籍奉還の時点の数字である。

・常陸府中(石岡)藩 :松平氏 2万石

・土浦藩:土屋氏 9万5000石

・下妻藩:井上氏 1万石

・下館藩:石川氏 2万石

いずれも10万石に満たない、小大名ばかり。一番大きな土浦の城も、今は門が残る程度という。これではどうやら、復興や復元された城ではないようだ。

そうなると、次のセンは、全く歴史に関係ない城に似せた建造物。真っ先に思い浮かんだのは、茨城の近隣の千葉県にある、宗教団体の建てた城のような建物。国道16号線からも見えるその建物は、誰もが本物の城と勘違いする。その仲間のようなものだろうか?しかし、噂では「誰でも自由に入ることが出来る」という。その関係の建物だと、警備が厳重で近寄れないことも多いものだ。

ますます、疑問を胸に私は、筑波山を目指して東京から常磐自動車道を経て、茨城県の谷和原インターチェンジで高速を降りた。そこから国道294号線を「水海道方面」に向かった。進行方向右手に、筑波山が徐々に近づいてくる。

谷和原インターより20分ほど走った頃、突如進行方向左手の前方に巨大な天守閣が見えてきた!近代の城の特徴である白壁、破風や望楼などほどよくバランスのとれた姿である。

「こんなところに、なぜ城が?」

道路には観光案内板も、城下町にある土産物屋も何も見えてこない。カーナビの画面には、城址の地図記号も、城跡らしき文字も全く表示されない。やはり、特定の団体や個人の所有物なのか?すると信号に近くに「地域交流センター(豊田城)」という標識を発見。それに従って進むと、ほどなく住宅地の中に「ドドーン」と巨大な天守閣が見えた。駐車場があったので、人気のない場所に車を止めた。車を降りて、天守を見上げる。「でかい。」日本各地の様々な天守閣を見てきた筆者でも、唸るほどでかい。ここは果たして、何なのか。

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まるで数十万石の大大名の城のようだ

この建物は茨城県常総市の地域交流センター、別称を「豊田城」という。天守の石垣と天守閣を合わせた高さはなんと48.5メートル!ちなみに国宝姫路城の天守閣が46メートル。日本でも屈指の高さを誇る大阪城でも52メートルなので、その大きさは歴然。内部はエレベータ付きの公共施設になっており、1,100人収容のホールや、図書室(1・2階)と歴史を紹介した展示室からなる施設を備えている。ちなみに平成4年に開館した。

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ここは有名観光地、といわれても分からないほどに見事。

それにしてもなぜ、こんな形をしているのか?

かつてこのあたりは、平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した垣武平氏一族の豊田氏が、東部に流れる小貝川べりに城を築いていた。その城が豊田城と呼ばれていたために命名された。もちろん、時代からいってもこのような天守閣ではなく、カヤ葺きで、近くを流れる小貝川の水を要塞としたものであったようだ。場所も厳密にいえば、現在の豊田城と少し離れた場所にあった。

かつての豊田城であるが、1575年(天正2年)に城主の豊田治親が、敵対する加賀谷氏に内通した豊田氏の家臣・飯見大膳に毒殺された事件があった。それによって豊田氏は滅亡し、豊田城も加賀谷氏の城となった。しかし、その後1601年(慶長4年)に徳川家康によって加賀谷氏が改易されると、城の領地も天領に組み込まれ、豊田城は廃城となってしまったのだ。

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城の駐車場裏手にあった立派な石碑。旗印も勇猛だ。

そして、長い長い時を経て、平成の世になり新しい「豊田城」が復活したのである。城好きの心をつかむような、「唐破風」「千鳥破風」「石落とし」などの外装もニクい。天守閣の周囲には、倉庫や関連設備も櫓を模したような建物が点在する。駐車場のトイレも瓦ぶきで、番所風だ。まるで、城郭が復活したかのようだ。豊田氏があの世から見たら、どのように思うだろうか。

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センター入口。外観と違って、内部はひっそりと人気がなかった。

残念ながら、ホールの利用、展示室、展望室の観覧は、水害の影響により現在休止となっている。理由は、2015年(平成27年)9月の「関東・東北豪雨」によって豊田城周辺の一帯も大きな被害を受けたからだ。その年、9月10日の早朝から付近を流れる鬼怒川の数か所で、越水や堤防からの漏水が発生、さらには堤防1か所が決壊した。これにより常総市では鬼怒川と小貝川に挟まれた広い範囲の土地が水没したのだった。その傷跡は、今も残っていた。

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夕暮れの豊田城を栃木方向から望む。

復興を願い、施設の再開を心から願いたい。そして歴史にあらたな発見を求める人たちに、豊田城や豊田氏の事を探る旅に多く訪れてほしいと思った。

 

 

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