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【三大〇〇調査会】 書の「三蹟」、そして「三筆」と諺「弘法も筆の誤り」・「弘法筆を選ばず」について 〈2408JKI47〉

ところで、「三筆」は初代の他にも各時代で選ばれていますが、初代以外で有名なのが寛永(江戸時代初期、1624年から1645年までの期間)の「三筆」です。

この寛永の「三筆」(「京都三筆」とも)は、本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗の3人により、平安時代末期から鎌倉時代、そして室町時代を通じて弱々しく形式化した書道を、かつての平安時代前期の威風を持ったスタイルを取り戻し、前代から継承された御家流を土台としながらも、大胆で骨太、かつ流麗な書風で復興したとされています。

※本阿弥光悦は、永禄元年(1558年)に生まれ寛永14年2月3日(1637年2月27日)に亡くなりました。本来は刀剣の鑑定や研磨などを家業とする本阿弥家に生まれましたが、彼が刀剣関係に携わったという記録はほとんどありません。書家以外にも陶芸や漆芸、また茶道などでも活躍したマルチな才能の持ち主で、特に俵屋宗達尾形光琳らと共に、琳派の創始者として我国の文化に与えた影響は大変大きいものがあります。

※近衛信尹は、永禄8年11月1日(1565年11月23日)に誕生、慶長19年11月25日(1614年12月25日)に亡くなった公卿で、左大臣を経て関白に就任。彼も多彩な人でしたが、特に書道は青蓮院流を学び、後にこれを発展させて近衛流(三藐院流)と称される一派を成しました。公家さんなのに武士に憧れていた変わり種で、元服時の加冠の役はなんと織田信長であり、名前の「信」は信長から偏諱されたものです。朝鮮の役の時は、肥前国名護屋城の豊臣秀吉のもとへ赴いたりして、後陽成天皇以下の多くの方から怒られてしまいます。そして薩摩国に流されるのですが、そこで島津義久らと仲良くなります。以後、関ヶ原の合戦で敗れた島津家を色々と支援したりしています。

※松花堂昭乗は、天正10年(1582年)に生まれて寛永16年9月18日(1639年10月14日)に没した江戸時代初期の真言宗の僧侶です。昭乗もマルチ・タレントでしたが、書は近衛信尹の父親である近衛前久に学び、後に独自の松花堂流(滝本流)を確立しました。因みに、お弁当で有名な「松花堂弁当」については、その名が昭乗に由来するとする説もあります・・・。

 

他には世尊寺流の「三筆」(藤原行成、世尊寺行能、世尊寺行尹)や、黄檗の「三筆」(隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一)、幕末の「三筆」(市河米庵・巻菱湖・貫名菘翁)、そして明治の「三筆」(日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六)などがあります。

世尊寺流の「三筆」は、世尊寺家初代当主の藤原行成、第8代当主の世尊寺行能、そして第12代当主である世尊寺行尹の3人のことです。尚、世尊寺流は後に持明院流となります。因みに流祖の藤原行成が創建した世尊寺が流派の名前の由来です。

黄檗の「三筆」とは、江戸時代に我国に渡来した(おうばく)宗の3人の僧(隠元隆琦・木庵性瑫・即非如一のことです。宋の米芾、元の趙孟頫、明の文徴明祝允明董其昌などの書風を伝えました。

※幕末の「三筆」は、江戸時代末期に活躍した書家3人(市河米庵・巻菱湖・貫名菘翁)のこと。唐様の流行を推進し、武士や儒者・文人に信奉者が多かったとされます。

※明治の「三筆」とは、明治13年(1880年)渡来した清国の楊守敬六朝の六朝書道に影響を受けた3人(日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六)のことです。この流れにより和様が衰頽し、唐様は六朝書によって革新されました。そして、今日の漢字書道界の基礎が固まりました。

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