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【歴史雑学】 国家としての「日本」はいつ頃成立したのだろうか? また、なぜ「日本」と呼ばれだしたのか? 〈2408JKI54〉

〈「ヤマト(やまと)」という呼名と「日本」について〉
「邪馬台国 畿内説」や「邪馬台国 東遷説」を唱える人々は、「邪馬台」を「ヤマト」と発音して整合性を主張しているが、しかし「邪馬台」という国は正規の史料には存在せず、記載があるとすれば「邪馬壹」や「邪馬臺」である。だが「臺」と「台」はあくまで別の文字であり、単純に「臺」を「台」に置き換えるのは少々強引に思える。

またこの点に関しては、『日本書紀』では「臺」と「台」を使い分けており、しかも「臺」を「ト」とは読まないし、『万葉集』でも「臺」を「ト」とは読まない。即ち、「邪馬臺」が「邪馬台」となり、やがて「ヤマト」と呼ばれたという説はそう簡単には成立しないだろう。

更に、「倭」が「ヤマト(やまと)」と読まれる様になったのは7世紀の初め頃だという説があるが、この説の更に起源を遡ると、『古事記』や『日本書紀』にいう「倭(ヤマト)」の語源は「山東」であり、近畿地方の生駒山地(現在の大阪府・京都府・奈良県の境に位置する丘陵性の山地)の東側を「山東(ヤマト)」、西側が「山西(カワチ)」(後の河内)と呼ばれていたとする。

これは、651年に造られた元興寺の塔の「露盤銘」にあった「山東」・「山西」のことであり、この「露盤銘」は現存してはいないが、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では「ヤマト」は「山東」として記録されていたとされる。

ここで歴史を神話時代へと遡ると、『饒速日(ニギハヤヒ)』は日本神話に登場する神であり、“神武東征”に先立って河内国に天降り、その後は東進して「山東」に至ったとされるが、やがては後から東征してきた『神武天皇/磐余彦(イワレヒコ)』に降ったとされる。その彼が最初に治めた地域の中央部にあった山々(上記の生駒山地)の東側にあったことから「山東(ヤマト)」と呼ばれた地域(大和国、現在の奈良県周辺)は、その後、後続して東進して来た倭人たちが治める国となり、やがて倭人の国を意味する「倭」をもって「ヤマト」と呼ばれるようになったとの説があるのだ。

ところでこの様に、倭人の東征のごく初期に「山東(ヤマト)」に来たのは『饒速日』を中心とした勢力だったが、たぶん実際にはこれは特定の人物の行動を指すものではなく、未だに縄文系の弥生人が住んでいた地域へ九州方面から倭人が進攻して来たという歴史的事実を表現したものだったのだろう。そして以降、何度(いくど)かの倭人の襲来が度重なる中で、最大にして最後の軍団の長が『磐余彦』だったのではなかろうか。

神武天皇が瀬戸内海を東進して難波に上陸した際に、東方の生駒山麓の草香(クサカ)地方から太陽が昇った。そして『日下の戦い』は“神武東征”において、神武軍が初めて草香(日下)に上陸した時の戦いであるが、この戦の様子も『古事記』に記されている。『神武天皇/磐余彦(イワレヒコ)』の軍勢は、「日下」(草香)の地で応戦した『長髓彦』に一旦は敗れるのである。またこの戦いで、神武天皇の長兄の『五瀬』は脛(すね)に矢傷を負い、後に亡くなる。また余談だが、アイヌ語(蝦夷語)では「クサ」は「船を着ける」、「カ」は「岸」を意味するとの説もある・・・。

また「日下」は「日本(ひのもと)」のことでもあり、それは上記の「山東(ヤマト)」にも関連する。従ってもともとの「日本」が示す地域とは、『饒速日』と『長髄彦(ナガスネヒコ)』(『饒速日』に仕えた地元の豪族、『磐余彦』と戦うが最後は主人の『饒速日』に殺されてしまう)の領国「山東(ヤマト)」(河内も含む)のことに他ならない。(その後の神武に関わる話〈八咫烏の活躍とか〉はここでは省略するが、最終的には土着の勢力を破り「山東」攻略に成功する)

さて「日下」の読みは「くさか」だが、「日下」の意味は即ち「ひのもと」である。こうして「日下」・「日本」は共に「ひのもと」であることから、「日下」(「山東(ヤマト)」が示す地域もしくはその一部)が「日本」の国号のおおもとになった可能性は充分にあるのだ。

また『日本書紀』などで描かれるストーリーでは、「ヤマト」と呼ばれる勢力が他の小国を圧して統一を果たした古代の我国では、漢字の伝来と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、時代の経過と共に「倭」が「大倭」になり、やがて「大和」へと変化していった(既述)とされる。

そして、後に「大和」の表記を「日本」に変更してこれを「ヤマト」と読んだとするが、中国五代十国時代の歴史書である『旧唐書(くとうじょ)』(945年成立)では、「日本」と「倭国」とは別個の存在とした。そこでは「日本」が「倭国」を併呑して統一王朝を成立させたとしており、即ち当初は「日本」と「倭/倭国」は異なる国であったとしている。

この『旧唐書』の記述は、当時の中国側においては、壬申の乱において「倭」(天智政権)」が倒されて「日本」(天武政権)が新たに成立したという見解が存在していたが、真相の確認が取れぬままに正史に記載された可能性が高いのだ。

これに対して『新唐書』(1060年成立)では、「隋」の開皇の末に天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれていて、日本の王の姓は阿毎氏である事や、筑紫城(九州北部)にいた神武が「大和」地方を征服して天皇に即位したことなどが記載されている。この説に従えば、「倭国」が「ヤマト」を併呑して、やがて「日本」と名を変えたということになり、これは『記紀』とは異なる既述であり、また日本神話(“神武東征”)と同じで「邪馬台国 東遷説」にも近く、注目される内容である。

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