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【歴史雑学】 国家としての「日本」はいつ頃成立したのだろうか? また、なぜ「日本」と呼ばれだしたのか? 〈2408JKI54〉

〈国号「日本」の成立について〉
さて、我国が自らの名乗りを「倭」から「日本」へと変更した年代を探る上では、『記紀』での表現の違いが大きな参考となろう。

『記紀』における違いは、『古事記』では原則として国号を「倭」に統一しており、『日本書紀』ではそれを「日本」として記述しているが、例えばヤマトタケルノミコトのことを、『古事記』では『倭建命』と記し、『日本書紀』では『日本武尊』と表しているのがその代表的な例である。

また『日本書紀』では、「国生みの物語」において我国の領土を『大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)』と表記し、特に読み方に関して「“日本”、これを耶麻騰(やまと)という」との注記を付している。(但し、『日本書紀』には『夜摩苔』との記述もある)

即ち、『古事記』で描かれている時代では、我国を指す言葉は「倭/倭国」とされており、また7世紀迄の時代(~飛鳥時代)においても我国の国号は「倭/倭国(ヤマト)」とされていたが、『日本書紀』では「日本」と書いて「ヤマト」と読むようになるのだ。そして『古事記』での「倭」は、そのほとんどが奈良盆地の「大和」地方(「山東」地方)を示す場合に用いられているが、『日本書紀』での「日本」は国全体を指す場合に使われることがほとんどであるとされる。

だが『記紀』成立より前の、607年に派遣された小野妹子をはじめとする遣隋使の一行は、「隋」の皇帝、煬帝宛ての国書を持参していたとされるが、その冒頭には有名な文面として「日出處天子致書日沒處天子無恙云云(日出ずる処の天子、日没する処の天子に書をいたす。つつがなきや)」という文言から始まっており、ここでは自国のことを「日出ずる国」と名乗っているのだ。

だがこれは、「日のいづる処の天子」が治める国家である「日本」(日の本=ひのもと=陽が昇る国=東方の国)という名称の通り、あくまで西の大国(世界文明の中心)である中華帝国(中国)との位置関係を説明した呼称であり、「日本」の国名は中国から見て東方の果てにある国、という意味合いが大であった。そしてこれを以て、「日本」という国号の漢字表記は、我国が中国の東側遠方に存在する太陽の昇る国、つまり単純に「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するのではないかとされるのだ。

また、遣隋使の相手側の国である「隋」の歴史書『隋書』には、「大和」の国に当たる国名は記載されていないが、「都於邪靡堆」と記されていることから、我国側の都は「邪靡堆(ヤマト)」(「山東」地方=「大和」地方)にあったと理解していた様子である。

その後、「日本」という“国号”を当時の「唐」に対して正式に名乗ったのは、大宝2年(702年)に派遣された第7次遣唐使の時だったが、「唐」は当時、一時的に武則天(則天武后)が女性皇帝として建国した周(690年~705年)の末期にあったが、この遣唐使の一団は歓迎を受けたとされている。

彼らの渡航の正確な目的は不明だが、この遣唐使は我国の“国号”の漢字表記を「倭」から「日本」に変更(但し、どちらも同じく「ヤマト」と呼ぶ)する旨を通告したとされている。但し、この変更についてはその理由についての説明が充分に中国側には伝わらなかったとされ、逆にあらぬ誤解を生じたことで、それが故に後の『旧唐書』等による「日本伝」と「倭国伝」が並立する遠因(既述)になったと推測する学説もある。(尚、この時、我国遣唐使の側にも国号の変更について明確な理由を知る者がいなかったともされるし、更にはそもそもこれといった変更の理由など存在しなかったとの説もある)

ところが、その後に成立した『新唐書』には「倭国伝」がなく「日本伝」のみであり、『旧唐書』が誤解に基づき「日本」は「倭」とは別の国であるとしたのに対して、「倭」が後に「日本」となったのでその二国は同一の国であるとし、「日本」という国は『旧唐書』以前までの中国の歴史書にて書き続けられてきた「倭/倭国」であると全面的に主張しているのだ。

さて我国の“国号”が正式に「日本」とされたのは、(多少時代が前後するが)大宝元年(701年)に制定された『大宝律令』によってである、とする説が最も有力である。大宝律令では「日本」と書いて「ヤマト」とか「ひのもと」と読んでいたとされるが、奈良時代に入ると一般的に「ニホム」と音読していたとも云われる。

この『大宝律令』は、日本最古の(完成された)成文法だが、それ以前にも『近江令』や持統天皇が679年に発した『飛鳥浄御原令』などの(未だ不完全ではあるが)法が存在した。上記の様に“国号”「日本」は、『大宝律令』において初めて定められたとする説が一般的ではあるが、「倭」という国の名を「日本」に改変した時期を、我国の最初の律令である『飛鳥浄御原令』の施行時期と考える説もあるようだ。

『浄御原律令』は、天武10年(681年)2月に飛鳥浄御原宮において編纂事業が開始され、持統3年(698年)6月に令二十二巻が完成し施行されたもの。そこで天武10年以降のある時期において新羅に対して正式な“国号”として「日本」が用いられた可能性が高いともされるのだ。そしてその時期は698年より以前、おそらくは持統朝の頃であろうと考えられている。

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