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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -16》 山名堯熙・山名堯政、毛利秀秋 〈25JKI28〉

ところで、山名煕政は清水正親の養子となり家督を継いだことで、名を清水恒豊と改めて徳川家の家臣(幕臣)となることが出来た。以来、清水恒豊や恒豊の子の清水煕豊が清水姓から山名姓への復帰を嘆願するも、豊臣家遺臣の復活を警戒する初期の幕府からは許されることはなかったとされる。

しかし断絶から85年の後、江戸時代も落ち着いてくると復姓の願いが許される。元禄13年1700年)3月2日、恒豊の孫の清水時信が徳川綱吉から許しを得て山名姓に復帰、山名時信と称した。これにより堯熙流山名氏は再興し、以降、この家系は山名氏嫡流(山名時氏)の通字(「時」の字)を幕末まで使用した。そして家禄は微禄ながらも、以後の幕府からは歴史的な名家・山名氏の一族として認知されたのだった。

また、煕政の弟の煕氏(ひろうじ)は結城秀康が興した越前松平家へ元服後に仕官し、その子孫も代々にわたり越前松平家の一門に仕えたとされる。一説には煕氏の外祖父(山名四天王・田結庄氏の一族)がかつて徳川家康の次男である秀康に仕えていたとされることや、叔父の山名豊郷が松平忠直の家臣であったことなどが理由とされているが、但し、この件の詳細は不明でありその信憑性は定かではない。

 

さて話は変わるが、足利氏の一門で室町幕府三管領筆頭の斯波氏の血筋である武将として、毛利秀秋が豊臣方に与して夏の陣で討死している。

毛利秀秋(もうり ひであき)は、毛利秀頼(長秀とも)の子で斯波武衛家の後裔という。別名を秀政、通称は河内守。

豊臣秀吉に仕え、文禄2年(1593年)に父の秀頼が亡くなると、遺領10万石の内の1万石だけを相続して、残りの多くの所領は隣接する地を治めていた高遠城主で義兄でもある京極高知(側室として秀秋の姉妹が嫁いでいた)が相続したが、この時、秀秋が父の遺領のほとんどを継承出来なかった明確な理由は不明である。

慶長4年(1599年)の正月には豊臣秀頼に伺候したとされ、関ヶ原の役では西軍に属して伏見城の戦いに参加したが、西軍敗戦により改易、所領を没収される。後に豊臣秀頼に出仕して5千石を給され、豊臣方として大坂の陣に参陣・入城したが、 慶長20年(1615年)5月7日、毛利勝永隊の武将として天王寺・岡山の戦いの激戦地である四天王寺北東の上本町で徳川方の仙石忠政勢と戦い、仙石忠政の家臣であった岡田広忠に討ち取られたとされる

彼の父・毛利秀頼(もうり ひでより)は、別名を長秀。官途名は河内守、後に羽柴河内侍従。『系図概要』等によると尾張守護・斯波義統の次男とされ、兄に斯波義銀(既出の山名豊国が徳川家康と共に義銀を訪れた時の逸話が有名、義銀に対して極めて慇懃な態度を示した豊国を家康が揶揄したとされる)、弟に津川義冬や蜂屋謙入がいる(異説在り)。 父の死後、毛利十郎敦元に引き取られて以降、毛利姓を名乗ったとされる。

織田信長に仕え、馬廻り、赤母衣衆、やがて南信濃の高遠城を与えられ大名となった。信長の死後に高遠から逃亡、羽柴秀吉に仕える。 そして小牧・長久手の戦い・九州征伐・小田原征伐などに参陣し再び南信濃の飯田に所領10万石を給されて大名に返り咲いた。

文禄2年(1593年)に死去、享年は53歳。その死後は、娘婿にあたる京極高知が遺領の大部分を継承し、 残る1万石のみを子の毛利秀秋が継いだとされる(既述)。

 

引き続き《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち》では、大坂の陣で戦った豊臣方の武将たちを紹介していく予定だ。熱心な読者からは、あの大物武将!?の登場を願う声が度々聞こえてくるが、筆者としては、まだまだあまり知られていない人物に光を当てていきたいと思っており、さて次回は誰に登場願おうかと思案中である‥‥。

-終-

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