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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -14》 井上頼次と井上時利、矢野正倫・飯田家貞 〈25JKI28〉

さてその頃、鴫野から大和川を挟んで北側にあたる今福にある豊臣方の守備陣地にも徳川方の部隊が襲い掛かった。ここの堤上(今福堤や蒲生堤と呼んだ)には、豊臣方が東方面や京街道からの攻撃に備えて四重の柵を設け、守備の兵士約600を配置していたとされる。

この今福堤の柵に向かったのが、佐竹義宣の軍勢である。義宣は家臣1,500名を率いて11月17日には大坂周辺に着陣していたが、25日に今福東方に移動していた。そこに徳川家康から「明朝に鴫野方面を攻める上杉景勝他の軍勢と同時に攻撃を開始し、豊臣軍を撃退せよ」という命令が下る。

11月26日早朝、佐竹勢は渋江政光や梅津憲忠、戸村義国らが兵を率いて堤を進み、第一の柵に向かって激しく鉄砲を撃ちかけた。この様子を京街道方面から視認した豊臣方の部将・矢野正倫は兵を率いて仮橋を渡り、300程の兵で柵の防戦にあたったが、佐竹勢の勢いは止まらず、仮橋を破壊する時間もなく撤退することになる。

また、そこに応援に駆け付けた飯田家貞とその配下の兵も、佐竹勢のあまりの速攻に応じきれずに柵を放棄して京街道との分岐点付近まで後退した。この今福防衛の緒戦での豊臣方は、佐竹勢に不意を衝かれた形となり、算を乱しては半数の将士が討ち取られてしまう。

こうして一旦後退した矢野正倫と飯田家貞だが、佐竹の重臣・戸村義国が堤の下を迂回させた伏兵により、両名ともに囲まれてしまった。正倫はここで奮戦したが多くの部下と一緒に討死してしまい、相前後して飯田家貞も戦死してしまった。そこで、当面の敵を排除した佐竹勢はそのまま片原町まで進軍した。

 

この状況を大坂城内で聞いた木村重成はただ一人で出撃し、その途中で自らの家臣の名前を呼びながら佐竹隊のいる片原町方面へと向かった。それを聞きつけた彼の家臣たちは急いで重成を追い駆けて、共に佐竹の軍勢にあたった。

豊臣方の兵数が次第に増えていくのを見た佐竹勢は不利と見て第二柵へと後退。木村勢はそこに付け込もうとしたが、対岸の鴫野にいる上杉勢が猛烈に射撃してきたので進退窮まり、堤の下に伏せて身動きが取れなくなる。

この時、大坂城で菱櫓に登りこの戦況を見ていた豊臣方の総大将・豊臣秀頼が、傍らに控えていた後藤基次に対して「重成を助ける様に」と命じたのであった。

基次が予備軍を率いて木村勢が退避していた堤の下に駆け付けると、兵数は合わせて3,000くらいとなり、士気も上がった。そこで基次は、木村勢の多くが敵の弾を恐れて伏せているのを見ると「戦いはこうするものだ」と、自ら堤の上に登り立ち上がって上杉勢目掛けて鉄砲を放ったと云う。これを見た豊臣方の将兵は勇気づけられて、一斉に堤上に上がり射撃を開始した為、逆に上杉勢は退避、鴫野堤の下に隠れる形となる。

この時点になり基次が重成に対して、「秀頼様の命令なのでこの戦、拙者と交代しましょうぞ」と声を掛けたが、重成は「ここで交代すれば、我が方に足並みが乱れて敵に付け込まれるでしょう。それに私は初陣なので、どうしてもこのまま戦わせてくだされ」と譲らなかったとされる。

その重成の言に納得した基次は、「木村殿はこのまま上杉勢に対して射撃を継続して下され。拙者は堤の下から佐竹勢に打ち掛かり申す」と言って、小船に乗船して水上からの攻撃を開始した。

そして佐竹勢が疲労した前線の兵を入れ替え様として堤の上に集合させた時、その隙を突いて突撃を実施。佐竹勢はこれに耐えきれず第一柵の東方まで後退したのだった。しかしこの時、上杉勢からの銃弾が基次の左腕に命中したが傷は浅く、その後の行動にも影響はなかった。

だが佐竹勢も後退の途中で態勢を立て直して一時的に豊臣方の攻勢は鈍ったが、奮戦を見せた家老の渋江政光が銃撃を受けて討死する。この機を捉えて基次が300名程度の兵を突撃させると、佐竹勢は再びずるずると後退し、後藤勢は佐竹義宣とその旗本の付近まで攻め寄せた。

この期に及び、遂に義宣は対岸の徳川方へ助けを求めた。鴫野の戦いで後詰めの豊臣勢を撃退していた上杉勢では、この要請を受けて水原親憲らが率いる軍勢を主隊とした援軍が佐竹勢の救援に駆け付け、豊臣方に対し側面からの攻撃を始めた。この為、戦況は再逆転して、木村・後藤の豊臣勢はこの新たな攻勢を支えきれないと判断して大坂城へと撤退することに決した。

だがこの戦闘での後藤基次の戦ぶりはさすがに絶妙であり、敵・味方の心理状態を読み取る術や突撃のタイミングを測るのが巧く、佐竹勢も大苦戦を余儀なくされたと伝わっている。

 

ちなみに鴫野の柵を占拠した上杉勢に対して、その手柄を評した家康と秀忠より、兵を休める様にとの気遣いから柵の守りを堀尾忠晴の軍勢と交代してはとの達しがあった。しかし景勝は「(有難き仰せなれど)血を流して戦い取った地を他家に譲ることは出来きませぬ」として、頑に守備を続けたと云う。またその後に再び豊臣方と上杉勢が交戦に及んだ時、丹羽長重が「力を合わせて敵にあたりましょうぞ」と申し出たが、景勝は「当家伝来の軍法にて、例えお味方でも我が陣内に他家の兵を入れることは適わない」と回答、長重の提案を断ったとの逸話が残っている。

尚、鴫野・今福の両戦闘では両軍とも終始、堤の上で戦っている。この時の柵・砦跡は現在市街地となっており遺構などは特定出来ないが、城東小学校の横手に鴫野古戦場跡の碑がある。

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