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《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -14》 井上頼次と井上時利、矢野正倫・飯田家貞 〈25JKI28〉

《井上頼次と時利》
井上頼次(いのうえ よりつぐ)は、長井道利(ながい みちとし)の次男(三男説あり)で通称は半右衛門とも。初めは長井姓(賜姓による斎藤とも)を名乗っていた。だが斎藤龍興が織田信長に滅ぼされると井上姓に改名して信長に仕え、1582年の信長の死後は豊臣秀吉、次いで秀頼に仕えたとされる。尚、父親とされる長井道利は、斎藤義龍・龍興の重臣で美濃竹ヶ鼻城主で後に美濃金山城の城主だが、生まれについての詳細は不明で、斎藤道三の子とか長井利隆の孫、長井長弘の子などの説もある人物。この為、一説には頼次が“美濃のマムシ”こと斎藤道三の孫とされている。

こうして豊臣家に仕えた頼次は、後に兄の道勝(父であったとの説もある)と共に黄母衣衆一員に取り立てられているが、上記の通り慶長19年(1614年)の大坂冬の陣“鴫野の戦い”で討死したのだった。彼は大坂の陣においては60歳を越える高齢だったとの説が有力だが、豊臣家の黄母衣衆だったこともあり、実戦経験も豊富なことから、多くの武将の中からこの砦の守将に選ばれたと考えられる。

ちなみに黄母衣衆(きぼろしゅう)とは、秀吉が馬廻衆の中から特に武勇に優れた若武者たちを選抜して結成させた精鋭部隊のことである。

 

更にこの頼次の弟で大阪の陣に豊臣方として参陣したのが、井上時利である。“鴫野・今福の戦い”には直接関与はしていないが、この記事にて触れておきたいと思う。

井上時利(いのうえときとし)は1559年に生まれたとされ、長井道利の三男(四男とも)で美濃国田畑城主。そして上記の通り、この時利が頼次の弟にあたるとの説が有力だ。生誕は永禄9年(1566年)または永禄2年(1559年)とされる。通称は小左衛門と云い、法名は宗了である。室は同じ斉藤家の家臣で後に織田家に仕えた赤座七郎右衛門永兼の娘とされる。

長井長弘の子であるとの説もあるが、長弘は1530年もしくは1533年に没したとされているので、時利が長弘の子であるとするにはムリがある。また長弘の子には長井景広がいるが、長井道利が長井長弘の子とする説をとれば、互いの関係性に信憑性が高くなる。時利が頼次の弟であれば道勝は彼の長兄となる。但し道勝の父は長井道利とも長井長弘であるとの両説があり、この一族の関係性は確定していない。

彼も織田信長の死後は豊臣秀吉に仕えた。1599年、美濃国内で760石を知行した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では、織田秀信(信長の嫡孫)の軍勢の属したが岐阜城攻防戦に破れ、戦後に徳川家康から改易されて牢人となる。

大坂の陣が起こると大坂に入城し、冬の陣では兵300ほどを率いて谷町口を守備したとされる。夏の陣では、5月6日の道明寺の戦いで奮戦するが多数の徳川勢の攻撃を受けて戦死している。

また彼の討死の際の逸話としては、以下の様な物語が伝えられている。この日、彼が道明寺口に薄田兼相らと共に駆け付けた時点で、既に先陣の後藤基次は戦死しており、徳川方の大軍が押し寄せて来ていた。その時、徳川方の菅沼定芳の家臣であった菅沼権右衛門定栄は、配下の騎馬武者30騎あまりとこの戦闘に参加していたが、運よく豊臣方の侍大将であった時利と遭遇、槍を交え続いて互いに組打ちとなった。

だが時利は剛勇で知られた武将であり、定栄を組み伏せてまさに首を獲らんとしていた。その時、定栄の家来が事に気付いて二人が戦っている現場に急いで駆け付けたが、時利も定栄もよく似た具足を着ていた為に見分けがつかず、「菅沼権右衛門は上か? 下か? 」と大声で聞いた。

ところが両人が同時に「上だ!」、「下だ!」と答えた為に、定栄の家臣は何れが己の主人なのか解らずに狼狽してしまう。だがこの時、下側に組敷かれていた定栄が「声で聞き取れ、馬鹿者め!!」と叫んだものだから、この言葉で自分の主人に気付いた家来は直ちに上に跨っていた井上時利を斬りつけたところ、流石の剛の者・時利もこれに怯んで仰け反り、その後は菅沼側が主従で力を合わせて彼の首級を獲ったと云うのである…。

 

ところで、頼次と時利の父親とされる長井道利は、美濃の蝮こと斉藤道三の弟もしくは庶子(既述)であるとの説があるので、二人は道三の甥か孫かも知れないのだ。即ち、すっかり零落していた斎藤家の復興を願い豊臣方に与していたが、その夢もあえなく潰え、両人ともに討死にを遂げてしまったのである。

しかし戦後、一族は罪を赦され、後に時利の子の時中は徳川秀忠の近習として仕えたとされる。

 

《矢野正倫と飯田家貞》
矢野正倫(やのまさとも)は、伯耆米子18万石の大名・中村一忠の重臣として3千石を領していたとされる武将で和泉守を名乗っていたが、1609年に中村家が一忠の死で断絶、正倫も牢人となった。

大坂冬の陣では、中村一忠の京都屋敷にいた側室の子をもって主家再興を願い豊臣家に従う。また正倫の弟の正綱は、本城米子で生まれた側室の子を盛り立てて中村家の再興の為に働いたが、何れも成功はしなかった。しかし後に中村家は、一忠の弟・正綱(異説には子の一清)が鳥取藩主・池田家のもとで陪臣として再興を果たすが、これは池田家が一忠の母の実家であったからともされている。

一方、飯田家貞については(この稿の執筆にあたり調べてはみたものの)全くといってよい程、史料が残っていない。今福の柵を守り、佐竹義宣の猛攻に耐えて激しい銃撃戦の末に戦死した、ということくらいだ。但し一説によると、今福柵の守備兵力とされる600名の内、半数以上が戦闘力の低い(ほぼ戦力外の)土方人足であったとされる。これが事実なら、当初の佐竹勢1,500に対して300~400名の兵力で対処したことになり、正倫や家貞が当時の武将として水準以上の能力レベルにあったとしても、一瞬で壊滅したことは仕方がないことである。

 

いずれの武将も史料に乏しく、特に飯田家貞に関しては全くその人となりついての詳しいことは解からない。即ち、勝者の場合、陪臣クラスにおいても多少なりとも逸話が残されていることが多いのだが、敗者の側の史料は極めて乏しいのが現実である。やはり歴史は勝者が創るものなのであろうか…。

-終-

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