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【太平洋戦争】 優駿 日本海軍 巡洋艦物語!! 第2回 軽巡洋艦 『阿賀野』 -後編- 〈3JKI00〉

1944年(昭和19年)1月上旬、第十戦隊旗艦は『阿賀野』から駆逐艦『秋月』に変更され、『阿賀野』は前述の損傷箇所を内地(佐世保)において本格的に修理することになった。

『阿賀野』は工作艦『明石』による応急修理を受けたが、それはケーソンを当てて破口を塞いだ罐室から排水、艦尾の切断部分には仮の舵を左右に装着し、航空機用デリックのウインチのドラムまでワイヤを伸ばして順回転で面舵、逆回転で取舵となる様に処置を施して操舵が可能としたものだった。

その他には、前部艦底部には浮力確保を目的とした空のドラム缶400個を納め、機関は5号・6号罐2基と前部機械室の主機を使用して外軸の推進器を回し、2月14日の試運転では14ノットまでの速度が発揮出来た。

こうして『阿賀野』は3ケ月間の応急修理の完了後、2月15日、駆逐艦『追風』と駆潜艇第28号に護衛されてトラック泊地を出発するが、直後の2月16日16時45分(44分説あり)、米海軍のバラオ級潜水艦の『スケート(USS Skate, SS-305)』が『阿賀野』を雷撃する。またちなみに米側の記録によれば、『加古』型重巡洋艦に対し魚雷4本を発射して3本が命中した、とされている。

『スケート』が発射した4本の魚雷の内、2本が右舷中部に命中し航行不能に陥る。内1本は右舷の罐室に命中、続いて1本が艦橋直下に命中し、その後に全艦が火災に包まれた。雷撃を受ける直前、『阿賀野』は敵潜水艦を発見して蛇行航行を実施しようとしたが、前述の操舵ワイヤが切れて転舵が不能となり、丁度そこに『スケート』の魚雷が命中したとされる。

必死の応急作業にもかかわらず、火災と浸水による右傾斜を回復することが出来ず、21時00分には艦長松田大佐は艦の放棄を決定、総員退艦を命じた。

翌2月17日の01時50分(45分とも)、炎上した『阿賀野』はトラック島北方、北緯10度10分、東経151度40分において遂に沈没した。護衛の駆逐艦『追風』が接舷を試みたが波浪が高く危険とされ、カッターボートによる生存乗組員の移動となった。

尚、『阿賀野』の救援に向かっていた第十四戦隊旗艦の軽巡『那珂』も、同じく17日に米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された。また『阿賀野』の生存者を救助した『追風』も、2月18日のトラック空襲により、トラック環礁北水道で米軍機の雷撃を受けて船体を真っ二つにへし折られて轟沈、同乗していた多数の『阿賀野』生存者も『追風』と共に戦没した。 またこの際のトラック空襲では、練習巡洋艦『香取』と第十戦隊所属の駆逐艦『舞風』も撃沈されている。

一方、駆潜艇第28号に救助されていた『阿賀野』の生存者は工作艦『明石』に移乗、回航部隊(駆逐艦『波勝』・『春雨』・『秋風』・『藤波』)等と共にパラオへと向かった。

その後の2月23日、第十戦隊の旗艦は軽巡『矢矧』に変更されたが、『阿賀野』の喪失により『阿賀野』と姉妹艦の『矢矧』が舳先を並べて航行する事は叶えられなかったのである。

昭和19年(1944年)3月31日、『阿賀野』は艦艇類別等級表と海軍籍から除籍された。尚、トラック島空襲で沈んだ艦艇(軽巡洋艦『那珂』、練習巡洋艦『香取』、駆逐艦『舞風』・『追風』)等も『阿賀野』と同日附で除籍されている。

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