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徳川御三家の城 奇妙な符合 〈1549/3TFU29〉

%e5%ae%b6%e7%b4%8b昨今は城ブームである。姫路城のような国宝の超メジャー級の城をはじめ、「天空の城」と呼ばれる竹田城のような山城まで多くの観光各が訪れるようになった。

日本の城は、江戸時代になって藩がおかれ、一国一城令でまとまった姿になった。全国の大名でも別格な、徳川御三家(尾張、紀伊、水戸)はどんな城を築いていたのだろうか。意外と知られていない「御三家の城」を比較してみた。

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名古屋城 大天守閣

まず、尾張藩の城は金の鯱鉾であまりにも有名な名古屋城である。

尾張藩は61万9500石。(石高は明治時代の版籍奉還時) 城の縄張りは、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西の丸(にしのまる)、北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三之丸が囲んでいる。西と北は水堀、および低湿地によって防御されていた。また、南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、その外側の幅の広い空堀や水堀に守られた外郭を構成していた。

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名古屋城大天守閣と小天守閣

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高い石垣、櫓の配置など、権力の象徴だ

五階建ての天守閣の高さは約55メートルと全国の天守閣の中でも屈指の高さ。江戸時代から残っていた天守閣や本丸御殿は昭和20年の名古屋大空襲で焼失してしまったが、昭和34年にはエレベーターを搭載した天守閣が復元され、本丸御殿も平成21年より復元が続いている。巨大な天守閣に、絢爛豪華な御殿。内堀周辺の石垣はその規模の大きさといい、石積みといい、近代築城術の粋を集めており、美しい。さすがは御三家、威厳と力を見せつけられるような光景が広がる。

続いて、紀伊の和歌山城。

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小さな山の上に立つ和歌山城

和歌山城は、和歌山市の標高およそ50メートルほどの小さな山の上にある、名古屋城が平地にど一んとそびえている姿に比べると、山の上にちょこんと載ったようなイメージだ。縄張りは北部を流れる紀の川が天然の堀の役割を果たし、本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配されていた。

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山城のイメージが強い風景がそこかしこに広がる

紀州藩は55万5000石。石高に比べると、遠慮がちな城の様だ。丘のふもとからは石段が続く。石垣も野積みのようで、戦国時代の山城のようだ。天守閣は3層3階の小さなものだが、大天守と小天守が連結式に建てられ、更に天守群と2棟の櫓群が渡櫓によって連ねられた連立式と呼ばれるものである。天守に登ると和歌山の町が望め、小さな天守ながら眺望は素晴らしい。

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高い石垣や木に囲まれた天守閣

本丸御殿も、山の頂上付近にあったというから、名古屋城とは大きな違いである。計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであったという。また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、これまた幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまった。現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積であるというが、それにしても小さいという印象だ。

そして、最後に水戸藩の城、水戸城。

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水戸城本丸につながる橋

水戸藩35万石。水戸城は、こういっては何だが、御三家で一番影が薄い。水戸黄門や、最後の将軍「徳川慶喜」の出身地であるのに、そのギャップはなんだろう。思うに、―つには、水戸城には門や櫓のような建造物が殆ど残っていない点がある。こちらの天守閣も昭和20年の空襲で焼失したが、ご覧のようにまるで櫓のような味もそっけもない建物だった。(もっとも、三階櫓という天守閣代用のものだったようだ)そして、名古屋城、和歌山城と大きな違いが「戦いの舞台になった」点である。幕末、水戸藩では尊王攘夷の「天狗党」と佐幕の「守旧派」に分かれ、抗争が繰り広げられていた。幕末から明治に年号が変わっても、激しい藩内抗争が繰り広げられた。藩校「弘道館」や三の丸を中心に戦いが行われていたのだ。徳川御三家の城で、そのような歴史があることは、あまり知られていない。

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水戸城内に残る藩校「弘道館」正門

水戸城の印象は、「要害」のようだ。今もその地形を見ると、その独特な遺構に驚く。水戸駅からみるとせりあがったように見える丘陵(崖ともいっていいくらい)の上に広がっていたのだ。その広がりも、櫓や門、石垣等で取りかもまれた姿ではなかった。天然の地形を生かし、高低差を使って要塞のような姿なのだ。

水戸城は近くを流れる那珂川と千波湖にはさまれた台地上に最初に建てられたものを拡張や改修を繰り返し、江戸時代に入ると本丸に居館を建て、三の丸を造営、外堀の拡張などの普請をおこない、縄張が完成した。今では土塁と空堀の一部、復元された薬医門、弘道館の正庁・至善堂・正門がかろうじて城址の名残りをとどめている。

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現存する貴重な水戸城の門のひとつ

現在.JR水郡線が走る線路跡もかつての掘割の跡だ。とにかく地形がすごい。実に個性的な、得体の知れない、変わった城なのである。

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水郡線の線路がある掘割跡。高い土塁の間を縫う。

 

以上、徳川御三家の城を比較してみた。全国の大名の上の上に鎮座し、将軍に一番近い藩。しかしその城は、豪華絢爛というわけではなく、それぞれ個性をもって建てられていたのだった。時代劇などで想像する大名の城のイメージには、和歌山城も水戸城もほど遠いようだ。

 

そして最後に、あらためて。

江戸時代から残され、明治になっても取り壊しを免れた御三家の3つの天守とも昭和20年に空襲で焼失している。

 

5月14日 名古屋城天守閣焼失

7月9日  和歌山城天守閣焼失

8月2日  水戸城天守閣焼失

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焼失前の水戸城天守閣

これは偶然の一致だったのだろうか。

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