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【軍事史研究】何故、世界的な鉄砲大国の日本で大砲が普及しなかったのか? 〈3JKI07〉

豊臣秀吉の朝鮮の役や島津藩の琉球攻略においても、その鉄砲隊の威力は甚だしい。種子島への伝来からわずかの期間で、当時の我国は世界でも有数の鉄砲保有国となり、その運用においても格段の進歩を遂げていた。ところが、これに引換え大砲の普及はほとんど成されていないが、それは何故だったのだろうか‥‥?

※関ヶ原の合戦において、東西両軍合わせて約8万丁もの鉄砲が準備された。また17世紀初頭においては、日本の国内には全世界の半分の鉄砲が存在したという説もある。

 

我国において大砲が普及しなかった理由を探る

我国の戦国時代においてあれだけ多数の鉄砲が普及したのに、何故、大砲は普及しなかったのだろうかと疑問に思う人は多いだろう。散々、朝鮮出兵で明軍の大砲に苦しめられたにも関わらず、その後も日本では大坂の陣などでの一部の使用を除くと、大砲はまったくと言って良い程に活用されなかったが、本稿ではその理由を考えてみたい‥‥。

理由その1  地勢的な条件

さて、いきなり結論めいた話題から入ると、先ずはこういった事が思い浮かぶ。それは、我国日本の軍事史上、長期にわたり兵站・軍事的な物流/ロジスティクス(Military logistics)に関しては特に掘り下げて興味を持たれたことはなく、国土の狭い島国故か、兵糧などの確保も侵攻先での現地調達が主であり、戦国/安土桃山時代における豊臣秀吉の軍勢における強大な兵站力の発揮までは、大規模な軍事的物流行為についての関心は皆無で、日本人は当然ながら重量物の陸路運搬技術などについての知見等に疎い民族であった。

※例外的な事例としては、秀吉軍は『中国大返し』や『賤ヶ岳の合戦』に臨んでその兵站力を如何なく発揮し、迅速な軍勢の移動を実現し敵方を驚愕させた。また後年の『小田原征伐』においても、当時としては異例の巨大なロジ能力を諸将に見せつけたのだった。

即ち、大砲の様な大型の重量物を搬送し、目的の場所に自在に据え付ける技術に極めて乏しい様子が明らかであり、それが端的な大砲導入と運用に関わる最大の障害となったのだろう。

そもそも島国である我国の地形や気候は、中国や欧州などの大陸地域の安定したなだらかな地形が続き、河川もゆるやかな大河が多い(物資等の運搬に適した)環境と比べて、険しい山地や蛇行した急流が多く、更には地震や台風などの自然災害も多発することから、大型重量物を運ぶに供する交通網の整備は伝統的に遅れていたと云える。

しかも通常でも多雨で降水量も多いから、近代になり舗装道路が出現するまでは主要な陸路でもしばしば水浸しの状態に陥ったり、移動が困難な程にぬかるんだりすることが多かった。

これが江戸期に入ると一部の主要街道の路面は押し固められ、場所によっては石畳さえ貼られることになるが、橋梁と他の一般道の整備はあまり進まなかったとされる。更に、防衛上の理由から大きな橋があまり建築されなかったという事もあろうが、台風の被害により架橋作業それ自体を諦めてしまった河川も存在した様である。

また更に、明治13年にドイツ帝国(プロイセン王国)から軍事顧問として訪日したクレメンス・W・J・メッケル少佐(最終階級は陸軍少将)の発言が興味深い。少佐曰く、「日本の地形を観察すると野砲の運営には適さないので、装備は山砲のみとして、輸送も牽引でなく荷載に統一した方がいい」と述べたと云うのだ。

※山砲というのは、分解して人や馬が担いで運べる大砲のこと。

理由その2  牽引方法とその技術

■貧弱な馬種と去勢技術の遅れ

我国特有の地勢的条件に加え、長年にわたり日本国内で生育されていた馬(日本在来馬)が小型馬であったことや牛馬による牽引技術のレベル向上が遅れていたことから、歴史的に荷馬車などの導入も遅くなったと考えられている(諸説あり)。

更に、武士たちが政治権力の中心で活躍していた時期(鎌倉時代~江戸時代)においては、彼らが乗る馬は皆、気性が真に激しい種牡馬ばかりであり、その暴れ馬を乗りこなしてこそ一人前の武士という事が、彼らの間で当然の様に思われていたと云う。

またこれについては、安土・桃山時代に宣教師として来日したルイス・フロイスによる、日本の馬の気性の激しさを目撃して驚き、あるいはその軽度の被害者となったという記録が残っているくらいである。この話は幕末に至っても同様で、当時の我国を訪れた多くの外国人が日本馬の気性の荒さについてを異口同音に書き遺している。

この様な風潮が、日本に馬の去勢技術が導入されなかった最大の要因とも考えられている。もし早期に馬の去勢技術が導入されていれば、耕作や荷役用に馬匹が史実よりも早く、そして多く用いられる事となり、これらによる牽引技術も進歩したと思われるのだが‥‥。

こうして明治時代に至るまで、我国では馬の去勢技術が確立されていなかったことから、複数/多数の馬匹で牽引すると馬同士が互いに争い、喧嘩をして上手く牽引が出来なかったとされる。

※江戸時代などでは既に馬の去勢に関する知識は、何度か諸外国から導入されていたが、日本人にはそれほど必要性が認められなかった様である。(『馬経大全』・『西説伯楽必携』・『解馬新書』などより)また明暦2年(1656年)に川越城内にある厩舎で荒馬の去勢を行ったとの記録もある。

我国でも、室町時代(~戦国時代)には既に中国やアラビアから体格の良い馬を輸入していたとも伝わるが、その後の江戸期には鎖国制度も相俟ってか馬の品種改良が積極的に行われたとの記録は無い。明治期以降になり、特に日清戦争や義和団の乱(北清事変)の後に、我国での馬匹改良は国策としての軍馬強化に力点が置かれ、去勢の促進と共に馬格の大きい洋種馬との交配による大型化が行われたとされる。

■馬車が無かった日本

台車・荷車を馬で牽引する馬車という乗物/運搬手段が日本史の表舞台に初めて公に登場するのは、明治初年頃に東京・横浜間で開通された乗合馬車であり、その後、ようやくにして都市部を中心に普及していったとされる。

また我国では、馬車以前に荷車の普及も遅く、その利用される範囲も都市内の輸送業務に限られていた。一般的に物流行為においては、積み替え作業に意外とコストがかかるので、我国では都市間の物流・輸送は近代になるまで馬の背に荷駄を背負わせる方式が主流であり、荷車を馬が曳く荷馬車の普及は遅く、既述の明治初期の乗合馬車の出現とほとんど同時期であったとされる。

世界史的には、厳密な馬車の発明時期・場所などは不明だが、西欧諸国・北アフリカや中東地域、またアジアでは中国や朝鮮半島の各国で、紀元前より馬車が戦車(戦争用馬車)や運搬用として普及していた。

これに対して我国で馬車が普及しなかった理由だが、既に述べた通り牽引するべき馬が小型だったこともあるが、馬車の通行が容易な街道(=舗装道路など)が整備されていなかった事が大きいと思われる。但しこの点は「鶏が先か卵が先か?」という問題であり、地勢的な制限に加えて、馬車が普及していなかったからこそ石畳などで舗装された道路の必要性が薄かったとも考えられるのだ。

馬車が古代より普及していた諸外国では、かねてより主要な街道が石畳などで舗装されており、道路を舗装したり固く整えるという概念が発達していた。即ち、道路を舗装しなければ馬車・戦車の使用には難があり、そうしなければ普段の生活にも困る上、他国との戦争の際に速やかに戦車が戦場に向かえないからであった。

※一説には、我国では冶金技術が低かった事で鋼の大量で安価な製造が困難だったとされ、その為、車輪と車体を繋いで路面からの衝撃や振動を吸収して車体を安定させる装置であるサスペンションが潤沢に製造出来なかったとも考えられている。そこで、低速故にサスペンションの必要性が極めて薄い牛車や大八車はある程度普及していたが、速度性能の高い馬車はサスペンションが不足して普及が阻害されたと云う。

当時は専用の砲車も未発達で、大砲を自由に移動させるのがまた困難だった。また、大体において移動の為には牛馬に砲車を牽かせるのだけれども、(現代でも同様だが)通常は砲口を後ろ向きに牽引したが、この為、目的の地点に到着してから、実際の発射位地に設置する為には大砲の方向を大きく転換させなければならない場合が多く、その運用は実際の射撃開始に至るまで困難を極めた。

※牽引に関しては、当然だが大砲自体の重量の問題が大きかったとも考えられる。欧州では、三兵戦術の導入で有名なスウェーデン国王グスタフ2世アドルフ(1594年~1632年)が軽量の大砲(3~6ポンド)を用いて機動力を発揮、これに影響された周辺各国が多数の大砲を運用する様になったのは1600年代の前半から中期以降であるが、当時の我国では大砲の軽量化は未だ程遠かった。

※戦国時代最後の大戦、大坂の陣でも、徳川軍にとって大坂城(天守郭・本丸)を射程に捉える場所まで運搬して来た大砲を設置することは非常に困難であったとされ、100人を超える人夫により何とか土嚢の上に据えて射撃を実施したと伝わる。

理由その3  大砲の用途

さて、特に大砲はその重量が故に積載や牽引が困難であったと考えられるが、更には日本特有の山城の存在にも問題があった。即ち、我国に限らず中世以前の大砲の用途は、先ずもって敵の城壁を破壊する為の攻城用兵器であり、要するに遠方から使うことの可能な破城槌であって、敵対する兵員を直接殺傷することを目的とするものではなかった。

※山城(やまじろ、やまじょう)とは、険阻な山地を利用して築かれた城の一種であり、山国である我国に多く見られる。主に、戦時の立て籠もり用として利用されることが多い守備に重点を置いた施設であった。尚、山岳部に建設された城は海外にもあるが、用語としての「山城」は我国の独自用語である。

※破城槌(はじょうつい)とは、城門や城壁を破壊し、突破することを目的とした攻城兵器のこと。一般的には、丸太状の物体などを対象の構造物にぶつけることによって、その衝撃で対象を破壊する兵器である。

そこで攻撃対象の敵城が高い山の頂に築かれている場合等には、攻城に大砲を使用するとなるとその大砲自体もかなりの高地に設置・布陣しなければならず、我国ではこれが大砲の効力以上に攻め手側の武将にとって難しい課題となったのであろう。

そしてこうした状況からか、我国における築城においては、それほど大砲の脅威が考慮された様子は見られない。上杉景勝が徳川軍の大砲を考慮して神指城を会津若松城(黒川城または鶴ヶ城)の代わりに建設した事や、岡山の後楽園が岡山城に対する砲撃の防御の為に造られたこと等が、数少ない城と大砲に関わる逸話である。

※ライフル(線条)の施されていない、所謂、滑腔砲の場合、球形の砲弾でないと弾道が安定しない。また大砲については、砲弾の中に炸薬が入っていて着弾の衝撃その他によってそれが爆発する仕組みになっている姿をイメージするのが普通であろうが、大砲がこの種の爆裂弾を発射可能となったのはずっと後の世のことである。

理由その4  製造技術の有無・優劣

鉄砲の銃身の製造方法に関しては、我国では基本的には鉄板を丸めて造られていたと云い、どうも日本の鍛冶屋は同時代の諸外国の職人と比べてそういった技術が得意だった様だ。対して大砲は鋳造によって製造するが、当時の日本の鋳造技術は同時代の諸外国と比べて劣っていた可能性があり、大砲に関する充分な製法技術が無かった可能性もある。

※鉄板を数層に巻いた短い筒を繋ぎ合わせた大筒などが、実際に製作されていたという記録も残っている。

鋳造(ちゅうぞう)とは、金属を熱で溶かして鋳型(いがた)に流し込んで器物を作る技術のことである。

しかし我国でも、奈良の大仏を始めとする多くの仏像や寺院の鐘等を、16世紀よりはるか以前の時代から鋳造により製造していた。欧州における大砲の鋳造技術の基盤となったのが、教会の鐘の鋳造技術であったことを考えると、日本で大砲を鋳造出来なかったのが技術的な要因だったとは考えられないという説もあるのだ(異説あり)。また我国では、18世紀頃までは銅の輸出国であったことから、大砲製造の資源としての銅が不足していたとも思えない。

石山合戦において織田水軍は大砲を装備した軍船(鉄張船)を装備していたとされ、しかも宣教師たちがその大砲は日本で作られたと書き残している。だが当時は大砲の国産製造技術は確立されておらず、信長の鉄張船の砲装は大砲ではなく大鉄砲であったとの説もある。

※天正17年(1589年)に、翌年(1590年)に起きた豊臣秀吉の小田原征伐の誘因となった名胡桃城事件(真田氏の勢力下にあった名胡桃城を北条氏側の勢力が奪取)の際に、北条氏の家臣で沼田城主の猪俣邦憲が大筒2門を沼田城に配備したとも伝わる。

但し、他の原材料に関しては、大砲を量産する上で必要な融点の低い鋳鉄の大量確保や、青銅(ブロンズ、銅と錫の合金)とする為の錫の安定供給が、当時の我国では困難だったとも考えられている。

強力な大砲を製造する為には少なくとも大量の鉄を鋳造し、可能ならば熱間鍛造等が行える事が望ましい。だが、自己緊縮法などの高等な技術は別としても、当時の我国にはそれらを実現する為の高温大容量の炉が無かったことは確かである。

※熱間鍛造とは、金属材料を真っ赤になるほど加熱し、柔らかい状態にした上で、プレス機によって圧力をかけて金型成形する金属加工法のことを指す。高温下で鍛造を行うことで金属部品を成形すると同時に、高い強度と靱性を得ることが可能である。

※自己緊縮法とは、砲身内径を口径よりやや小さい状態で加工し、砲身内に高圧(水圧など)をかけることにより内径を膨張させて残留応力を与える製造方法のことで、砲身の強度が増すとされる。材質強度が低い鋼でも材料として使用可能となったり、同じ材質でも砲身肉厚を薄くできたりと、コスト・重量の軽減につながる。尚、自己緊縮法と同じ効果を出す別の方法に焼嵌法がある。

さて、江戸時代の初期以降、我国で製造された青銅製の前装(先込め)式の大砲は、後に和製大砲(わせいたいほう)と呼ばれた。この和製大砲の原型となる西洋式の青銅製鋳造砲が日本に伝来するのは、慶長19年(1614年)~慶長20年(1615年)の大坂の陣に備えて徳川家康が英国より輸入・購入したカルバリン砲4門とセーカー砲1門が最初とされている。また併せて家康は、オランダからもカノン砲と思われる大砲12門を購入している。

※カルバリン(Culverin砲は、近世に用いられた中口径の前装式大砲。この「カルバリン」という名称はラテン語colubrinus(「ヘビのような」)という言葉に由来し、その砲身の長さを表している。尚、砲身は青銅鋳造されていたが、後に鉄製の鋳造砲も製造される様になる。

※セーカー(Saker)砲は、近世に用いられた小口径の前装式大砲で、カルバリン砲よりも弾丸重量が小さいが、その代わり装薬量を増やし砲身長を長くする事で長射程の射撃を可能とした。

その後、これらの和製大砲は島原の乱で使用されたが、大きな戦乱が無くなってからはその大規模な改良や研究開発は途絶え、一部の製造のみが細々と続けられていたとされる。そして江戸時代も後期から幕末になると、高島秋帆による西洋砲術の導入や黒船来航により技術の遅れが露呈し、はるかに進化した西洋砲に取って代わられていく。

※江戸期には、武州忍藩と岩槻藩が徳川幕府からの委託で、所謂、大筒(大砲)や大鉄砲の製造に着手したとの記録もある様だ。しかし、多くの国内生産が試行錯誤の連続だったと見えて、製造ノウハウの蓄積は不充分であり、当然、熟練工も少なく、その製造法はなかなか普及せずに生産地も限られていたとされる。

※高島 秋帆(たかしま しゅうはん)は、江戸時代後期から末期にかけての砲術家で長崎出身。オランダ人から西洋式の砲術を学び、天保5年(1834年)に高島流砲術を創始した。

また大砲の製造方法に関しては、長期間にわたり鉄と青銅を用いる方法が併存した。鉄製がコスト的には安価とされたが、当時の我国では鉄での鋳造技術には幾多の課題があり、青銅製が優位であったと考えられている。

ちなみに西洋先進国でも、19世紀後半に至りベッセマー法が普及するまでは、鋼鉄製よりも青銅製の大砲が優秀とされていた。フランスのナポレオンⅢ世も、大砲の製造に関しては青銅製の優位を支持していたと云う。

※ベッセマー法とは、溶けた銑鉄から鋼を大量生産する世界初の安価な製法のこと。 発明家ヘンリー・ベッセマーが1855年にこの製法で特許を取得した。

※ナポレオンⅢ世(本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト、Charles Louis-Napoléon Bonaparte)とは、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年~1852年)、後にフランス第二帝政の皇帝(在位:1852年~1870年)となった人物で、ナポレオン・ボナパルトの甥にあたる。1808年4月20日生まれ、1873年1月9日に亡くなった。

幕末において新式の西洋砲の製造法は、我国の各地・各藩に広まったが、佐賀鍋島藩の製造した、当時において世界的にも最新の後装施条砲であったアームストロング砲(佐賀藩は我国初の反射炉を建設して鋼の製造を行い、自藩でアームストロング砲を鋳造した)等を除くと、その多くは材料である多量の鉄や青銅等の生産能力(質・量ともに)低さにおいて躓いたとされる。即ち、当時の我国の鋼材などの製造技術の実情は、同時代の西洋先進国とはかけ離れた後進的な状態のあった為である。

※箱館戦争の際、榎本艦隊最強の軍艦であった『開陽』にも、オランダ製の青銅砲が一部搭載されていたが、19世紀末の日清戦争の際にも、未だに日本軍は多くの青銅製の大砲で清と戦ったのだ。

以上の様な理由から、戦国末期から江戸時代の初めにかけては、一定の方法論と生産ラインとによって大砲を大量に供給できる態勢は未確立だったと考えられるのだ。

理由その5  軍政並びにコスト

その他の理由には、軍制上の要因もあったと考えられる。戦国大名の軍事組織は、基本的に従属する家臣団に軍役を分割して負担させることで成り立っていたから、大砲の様な大型で高コストの兵器を大名自身よりも経済力の弱い彼ら家臣たちに割り当てて、調達・運用させるのは極めて無理があった。

当然乍ら、大名自らにおいても莫大なコストのかかるこうした武装を手に入れ、弾薬の調達などを安定的に行い、その射撃操作を始めとした運用全般に関わる専門家を多数召抱えて自軍に一定数を配備する為には巨額の支出を用したが、そこにある費用対効果を検討した場合、大名たちが大砲よりも鉄砲の方を多数保有する事の方がリーズナブルな武器選択であるとの結論に行き着いたことは、充分に納得出来るのだ。

但し製造コストに関しては、その後の開発技術の進展と軍事的な需要の拡大・継続により、その削減(コストダウン)が行われて大規模な量産化に成功し、また軍制の改革などによって大砲の大量配備が可能となり、戦場での運用(戦術面を含む)が一般化した可能性を否定は出来ない。

※歴史的に戦国期の我国では、通常の戦争において(ごく一部を除くと)大規模で本格的な騎兵部隊の投入はなく、(足軽などの)歩兵部隊(弓矢と槍、そして鉄砲)中心の戦争形態をとったことから、それらの部隊には戦略的な機動が重要であり、また常に要求されたとされる。そこで、運搬に手間取り運用が難しい大砲(所謂、砲兵部隊)は足手まといとなると考えられ、費用対効果も含め、ほとんど採用されなかったと云うのである。

理由その6  結論

これまでに幾つかの理由を述べてきたが、結論としては、大砲の先進地域であった欧州でも、積極的に使われる様になったのは17世紀に入ってからであり、日本でも決して普及が進まなかったのではなく、いよいよ普及が始まろうとしていた時点で(国内における)戦国乱世の時代が終わりを告げた事から、強力な武器・兵器である大砲等のニーズが失われことが最大の理由と考えられよう。

ようやくにして普及が開始された時点で徳川家康により天下統一が成され、戦国時代は終息した。その後、徳川幕府や諸藩は大砲の製造(研究開発)に力を入れず、以降の我国おけるその発展は止まったのだろう。つまり、普及の途上で具体的なニーズがなくなってしまったという説が有力かも知れない。

※幕府による主要鉱山と銃砲生産地の統制があったとされる。

更に勿論のこと、日本が矮小な島国であり山岳国家であった事で重量物の搬送が困難だった点や、製造技術の遅れや運用コストが極めて高価であった点などや、弾薬の調達が難しかった事なども重なり、これらが総体となって普及に待ったをかけた理由であり原因であった。

※幕末期に入ると、細々ではあっても江戸時代を通してその研究開発だけは続いていたと考えられる大砲が次々に製造されて、相次いで諸藩・各地に配備された様子から、我国でも決して大砲を軽視していた訳ではないとの意見も多い。

 

我国の戦国武将たちが大砲の威力を思い知らされたのは、文禄・慶長の朝鮮出兵においてであった。明軍が多数装備していた各種の大砲により、大いに苦戦を強いられたのだ。しかし多くの参戦武将たちは、意外にもその効果抜群の兵器に大きな興味・関心を示さず、実際に従軍・渡海しなかった徳川家康を除いては、その後に大砲の研究開発を継続した戦国大名はいなかった様で、例外的なものとしては、関ヶ原の合戦において石田三成が大砲を使用したとの記録もあるが、連射が出来ずにほとんど戦果を上げることがなかったと伝わる。

それでも、大坂の陣以前に攻城戦で大砲が用いられた例は18例(異説在り)に及び、それなりの効果も実証されたのだろう。そこで徳川軍は、大坂の陣で大砲を大量に準備し使用したのだと考えられる。効果が無ければ、あれだけの大砲に多額の費用と労力を費やしたのは疑問であるからだ‥‥。

しかし以降、幕末に至るまで、我国では積極的な大砲の研究開発は途絶える。時代は江戸期に入り、太平の世を迎えたことで、その他の武器・兵器も同様ではあったが‥‥。

-終-

 
 

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