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【ライバル対決】 独軍 キューベルワーゲン vs 米軍(連合軍) ジープ 〈3JKI07〉

既に前年(1939年)において、独軍のポーランド侵攻戦では機械化・装甲部隊が各種中小型の車両を使った電撃作戦を成功させており、これに対抗し得る車両を持つことが米軍にとっても急務となっていたこともあり、1940年7月11日、小型偵察車開発(小)委員会の答申を受けて米陸軍需品科(United States Army Quartermaster Corps)は、全米の自動車製造会社135社に対して設計要件の概要を通達、4輪駆動の小型偵察車の開発計画に応札することを緊急に要請した。

※当時の米陸軍の各種車両開発は、武器科(United States Army Ordnance Corps)が戦闘車輛の開発を担当し、需品科が汎用車輛を担当していた。ここでの汎用車輛というのは、偵察・連絡用を含む物資・弾薬や装備・人員の輸送に用いられる車輛である。この為にジープの開発の担当は1940年7月時点では需品科に置かれていたのだが、輸送関係に関する開発の担当は1942年3月創設の補給部を経て同年7月31日付けで編成された輸送科United States Army Transportation Corpsに移ることになる。

※当初は、バンタム社との随意契約が予定されていたが、需品科の思惑で競争入札に変更となったとされる。

この時、需品科が提示した仕様書の入札条件は、車両重量は約585kg以下、積載量約270kg、ホイルベースは2,030mm以下、トレッドも1,190mmを下回るサイズ、エンジン出力は最低40馬力の、重機関銃を搭載することが可能な4輪駆動車であるとし、しかもこのクルマを75日間で70台製作し、且つ最初の1号車を49日目までに陸軍に納車するというものであった。

※トレッドとは、車輌における左右タイヤ接地面の中心間距離(輪距)のこと。

またこの時の要求仕様には「地雷を踏んでタイヤ4本のうち2本を失った場合でも、スペアタイヤを含めた残り3本で100km の走行が可能であること」、そして「車載工具ですべての修理が可能であること」という条件が入っていた。

 

ところが7月22日の入札開始に際して、バンタム社とウイリス社の他は何処の自動車メーカーも応札しなかった。それは、要求される性能とその開発期間の指定が大変に厳しいものであり、尚且つ、当時の米国では主流から外れた小排気量の小型車に関するオーダーでもあった為、ゼネラルモーターズ(GM)社やフォード・モーター社(以下、フォード社)等の数多くの他社メーカーはこの入札には応じなかったのである。

当初よりこの入札の切っ掛けとなった案件に関わっていた零細企業バンタム社は、当時、業績不振に喘いでおり、本件受注に起死回生の商機を見出していた。また中堅自動車メーカーのウィリス社も、既述の通り小型偵察車開発に関する知識を有しており、専門が中・小型車の製造であったことから応札に踏み切ったとされる。

入札の結果、ウイリス社の提示価格はバンタム社よりも安価であったが、審査認証されてから49日という納期内に最初の試作車を引き渡せるかどうか疑問である、とコメントしており、その為(ほぼ自動的)にバンタム社の、最初の試作車グループ70台の納入車輛の価格として17万1,185ドル75セントを請求するという条件が受け入れられた。

 

こうして試作車開発を委ねられたバンタム社では、社外から自動車設計技師のカール・K・プロブストを招聘(7月17日にバンタム社の技術部長に就任)して、彼を中心に突貫作業で開発を開始した。しかし提示された要求仕様の車輌重量 1,275ポンド(≒585kg)以内では、指定された走行性能や積載重量をクリアすることは不可能であった。

そこでプロブストは要求仕様の車輌重量の制限をあっさりと無視して、自重1t弱(2,000ポンド程度)の極めて実現可能性の高い現実的な車輌の開発を進めて、何とか試作1号車を完成させた。

このクルマは、シンプルな梯子型(ラダー)フレームに、前後とも縦置きリーフ・スプリングで吊られたリジッド・アクスルを備える形の堅牢な構造で、エンジン専業メーカーであるコンチネンタル社製の小型車用のサイドバルブ水冷直列4気筒エンジン(毎分3,200回転で46馬力を発生)とスパイサー社のアクスル(車軸)を採用し、簡易なオープン型ボディを架装していた。尚、この時点ではフレームやボディは手造りであり、また車輌重量は940kgと軍の当初要求仕様に比べて大幅に増えていた。

そしてこの基本設計は以後のジープに踏襲されることになるが、他社既製エンジンの採用に限らず、既にバンタム社が保有する小型車用の汎用部品を多用することで、最大限の開発期間短縮が図られたのだった。

 

1940年9月21日、バンタム1号試作車の完成記念写真(助手席に座っているのが社主フランク・フェンでプロブストは一番左の人物)

バンタム社のこの最初の試作1号車は、僅か2ヶ月足らずの期間を経て9月21日には完成、9月23日の納入期限最終日(締切りの30分前とも)に自走でメリーランド州ボルチモアの陸軍ホラバード補給廠(補給基地)へと到着して納車された。

しかし需品科は、バンタム社への初期試作車製作の指示やその後の走行試験の実施と並行して、ウイリス社とフォード社にも試作車開発を依頼(示唆)していた。

これを受けたウィリス社は1940年11月13日に独自のプロトタイプを納入、また23日にはフォード社の試作車もホラバード補給廠へと到着した。

※需品科がフォード社に正式に試作車製作を要請したのは10月とされるが、既に当該社は7月には試作車の開発作業を実施していたとの証言もある。また7月27日のテスト走行以降、10月中旬頃まで、ウイリス社とフォード社の社員がバンタム社の試作車の試験の様子を子細に観察(見学)していたとされる。

フォード社の“Buddy”

※実はこの時、フォード社は別の試作車を用意していた。基本構造は同じながら、客車などの鉄道車両の車体製造で有名なバッド社にボディの製作を委託した車輌で、“バッド・ピグミー(Budd Pygmy)”とか“バディー(Buddy)”と呼ばれたタイプであったが、これはホラバードへは送られなかったと云う。     

 

その後、バンタム社の試作車は、1ヶ月に及ぶ過酷な試験を受け、その基本性能の高さが証明されたのだった。ウイリス社の試作車がホラバードに到着した11月半ば頃には、バンタム社のバトラー工場は残りの試作車の製作で大忙しであった。そして12月17日には、8台の四輪操向モデルを含む70台の試作車全てが、ホラバードをはじめとする陸軍基地に配備され、実地の走行試験が開始された。

走行試験中のバンタム1次試作車(BRC60)

10月18日に、需品科が管轄する自動車輸送(小)委員会は第2次試作車について「バンタム社、ウイリス社、フォード社から、各々500台づつを購入する」ことを勧告したが、歩兵部隊と野戦砲兵部隊の代表者がこれに反対した。彼らはバンタム社の試作車を充分に評価しており、今更、他社を加えることで自部隊への納車が遅れる可能性には否定的であったのである。

その後、バンタム試作車の高評価に満足した陸軍長官と陸軍参謀本部は、一旦、バンタム社へ1,500台の2次試作車(量産試作車)の全てを発注すべきだと決定したが、需品科はあくまでウイリス社とフォード社をこの小型偵察車の開発と製造に参加させる様にと画策を続け、両社に対して最大限の好意をもって支援を継続した。しかし需品科も、各方面からの批判に晒された結果、しぶしぶながらも最後には1,500台全部をバンタム社から購入することに同意したのだった。

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