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【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第2回 〈25JKI00〉

2. 入学から初等の学習について

こうして庶民の子供たちは、数え年で7~8歳頃(満6~7歳程度)になると親に連れられて入門し「寺子屋」に通い始めたが、その入門時期は「初午(はつうま)」(2月の最初の午の日)を吉日として行われる事が多く、この日を「寺入り」・「寺上がり」と言った。

※「寺入り」については、「初午」に続いて「五節句」の日を選ぶことが多かったとされる。

※「寺子屋」に入学することは、山登りになぞらえて「初山踏(ういやまぶみ)」とも「初登山(しょとうざん)」とも呼ばれたとの説もある。

※当初の裕福な家の子弟が中心であった頃の「寺入り」では、入門する子供たちは裃(かみしも)を着て正装したらしいが、後に多くの階層に「寺子屋」が受け入れられてからは、当然ながらこうした(豪奢な)風習は廃れていった。

初日には両親が付き添い、師匠に対する礼物『束脩(そくしゅう)』を持参した。また、他の先輩生徒・級友にも挨拶がてらに「御仲間入り」の菓子(煎餅や団子)などを配ったともされる。机・硯箱などの設備品は原則貸与だが、筆や草子など(の消耗品)は各自が自弁するものとされた。尚、一部の「寺子屋」では、一種のサービスとして茶菓子を用意したり生徒の月代まで剃ったともされる。

※入学・入門の際に、弟子・生徒が師匠に対して納めた金銭や飲食物のことを『束脩(そくしゅう)』という。この『束脩』は中国で干し肉を藁で縛って師匠の下へ持参した故事に倣ったという。ちなみに「脩」とは、元来は干し肉の束10組のことを指すとされる。

※ここでの草子(そうし)とは白紙を束ねた冊子のことで、現在の学習ノートと考えて良い。

※「寺入り」の際には机を持参したとの説も多く、破門された時にはその机を担がされて追い返されたと云う。比較的裕福な家庭の子弟の場合はその可能性が高いが、貧しい庶民の子はどうだろうか。やはりこれも一律ではなく、自ら机を準備することが経済的に困難な場合は貸与品に縋ったと推測されるが如何だろうか・・・。

歌川国貞の作 『稚六芸の内、書数』

さて入学(「寺入り」)して最初に学ぶことは、「いろは48文字」等の仮名文字や数字の修得である。一説には特に基礎的な数字を優先して学習したともされるが、字形を覚えると同時に読み方や字義についても学んだ。尚、書体は専ら「御家流(おいえりゅう」であったとされる。

※この場合の「御家流(おいえりゅう」とは、主に武家の公式文書に使用された尊円流/青蓮院流(しょうれんいんりゅう)の流れを指していて、武家の公式文書の多くはこの流派の草書体で書かれていた為に、次第に全国のあらゆる階層に普及したとされる。江戸時代、「寺子屋」などで庶民が学ぶ「往来物」(後述)などの教科書の記述にもこの御家流が用いられていた事から広範に普及し、結果的に当時の我国の標準書体となった。

 

3. 「寺子屋」教育の基本、「手習い」学習について

その後の学習内容は、時代により、もしくは地域により、また生徒の生業・家業によっても多種多様に変化した。しかし圧倒的に多数を占めたのは、様々な勉学の第一歩としての読み・書きの基本である習字、即ち「手習い」であり、この「手習い」はどの「寺子屋」においても中心的な学習内容として初期学習の中核となっていた。つまり、「手習い」によって文字を習得することから、その後の全ての学習が始まったのである。

だがこの「手習い」を中心とした「寺子屋」の基礎学習は、まさに実践に重きを置いたものであり、単なる知識としての文字の学習ではなく、断然、実社会での使用を目的とした身に付く教育が求められた。そこで子供たちは師匠の指導の下、ひたすら墨を摺り、紙は貴重であったので用意した紙が真っ黒になるまで何度も手本を筆写し、筆の運びを覚えたと云われている。

そして生徒たちは「手習い」学習を重ねることで、手本とした語句や文章を覚えるだけではなく、自身が文章を書く時の語彙・ボキャブラリーの拡大と作文能力の向上となって身に付くのだった。「寺子屋」教育の“肝”は、「手習い」を通した“書いて覚える”という教育方法であったのだ。

但し「手習い」で習う文字は、漢字であれば草書と行書にあとは(平・片)仮名文字の三種類である。楷書は庶民においては日常生活で使用することが無かったので、「手習い」の対象からは外されていた。つまり楷書の知識が無くとも公文書や触書は草書で書かれており、一般の出版物などには行書が多く使われていたので、特に普段の生活には支障がなかったのだ。

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