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【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第2回 〈25JKI00〉

6. 「算用」教育の実態について

さてここで、「寺子屋」教科の三大看板、読み・書き・算盤の“算盤(そろばん)”について焦点を当ててみようと思う。「手習い」の実習や「往来物」を使用して読み・書きを修得することとは別に、算盤を用いて、もしくは暗算・筆算による計算諸法を学ぶ「算用(さんよう)」(初・中級の算術・算学)分野の学習にはどの様なものがあったのだろうか・・・。

『塵劫記』

江戸時代には町人(商人・職人)の経済活動の発展・拡大と関連して、庶民にとっても「算用」の教育が「手習い」と共に重要な位置を占めていたが、江戸時代も初めの頃は、「算用」即ちここで云う“算盤”の技術は多くは実生活の中で、またはいわゆる「算盤(そろばん)塾」で「寺子屋」とは別個に学んだとされる。

しかし江戸時代も後期となると算盤も併せた3教科(読み・書き・算盤)を教える「寺子屋」も多くなり、この点でもその制度は明治期の学制以後の小学校に近づいていたと云えよう。但し、武士階級の師匠は算盤の代わりに『唐詩選』や『千字文』などの漢文を教えたともされる。

こうして重要性を増していた「算用」教育の為の教科書としてつくられたのが、『塵劫記(じんこうき)』である。これは江戸時代の初期・寛永4年(1627年)に吉田光由によって初版が発行された算術・算学書のロングセラーで、算盤・珠算の教科書ともなったが、但し、版を重ねても内容についての改訂は為されず、後年に至っても同書で使用される円周率は“3.16”のままであったとされる。またその後、『~塵劫記』と題した多数の類似書が発刊されて、「算用」の一大教科書群を形作った。

※我国の数学は「和算」と呼ばれ、中国から伝来された後に国内で独自の発展を遂げて、特に江戸時代に目覚ましく進歩した。

※「和算」の大家、関孝和(1642年3月? ~1708年12月5日)は円に接する正多角形の辺の長さを用いて、正確な円周率を11桁まで計算した。また関以前には村松茂清(1608年? ~ 1695年)が7桁までの正確な値を示し、更に関の弟子である天才数学者・建部賢弘(1664年6月 ~1739年8月24日)は41桁まで正しい値を得ることに成功した。関もそうだが、建部の業績も現在ならば間違いなくノーベル賞級(否、それ以上!?)である・・・。

※『塵劫記』の類似本には、元禄7年(1694年)刊行の半紙本『万宝塵劫記』や、刊年未詳の『新編塵劫記』がある。更に、明治初年(1868年)頃に刊行されたとみられる『早学算切記』もあるが、低学年向けに挿絵を入れるなどの工夫が凝らしてある。

また生徒は、計算法に関しては算盤と親和性の高い「八算見一(はっさんけんいち)」等を覚え、一部には開平(平方根を求める)・開立(立方根を求める)の方法や円・球形の面積・体積を求める計算術までをも修得したとされる。尚、ここでの“八算”とは割り算「九九」のことで、割る数・割られる数・答えの順に暗記したが、1で割ることには意味がないので初段が省略されて八段となっている。“見一”とは同様のもので二桁以上の割り算の場合であり、初段の先頭が“見一無頭作九の一”というフレーズであるところから出た名称だ。

尚、多くの読者がご存知のことだろうが、江戸期の我国の高等数学(「和算」)は世界的にもトップレベルの水準にあったが、明治期以降、西洋の近代数学や物理学が導入される際に、既に日本国民の多くの層にその受け入れの素地が形作られていたことには、この「和算」を支えた「算額奉納」や「遺題継承」好きの国民性と算盤学習の普及・広がりが、大いに寄与していたのだと考えられるのだ。

※「算額奉納」は、江戸時代の日本で額や絵馬に「和算」の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したもののことだが、他者の奉納した問題を解いてはそれを奉納して解決を誇示したり、他者に挑戦する目的で難問を考案して奉納する場合もあった。また「遺題継承」とは、吉田光由が自著の寛永18年(1641年)版『塵劫記』の巻末に回答を載せないで12の問題を掲出し、「実力ありと思うものは、これを解いてみよ」と記載したのが最初とされている。この後、次々に「和算」の学者が先の問題の回答を自著で発表し、また同書の最後で新たな問題を掲載して読者に挑戦することを繰り返した。

 

7. 「寺子屋」における高等教育について

さて既に解説した他にも生徒本人や父兄からの希望に応じて、様々な専門教育が用意されていた。上記の様な高等算術の他にも、難しい漢学の素読も行われ、教科書に用いる典籍もより高度なものとなり、例えば男子には教訓集の『実語教』や『童子教』、漢字を学ぶ『千字文』、『古状揃』・『三字経』に加えて『六諭衍義』などや四書・五経などの儒学書が用いられ、歴史書であれば『国史略』・『十八史略』などを修め、更には『唐詩選』・『文選』までも学ぶ子供もいた。

また女子の場合は、『女今川』や『女大学』、『女庭訓往来』・『百人一首』・『徒然草』に『源氏物語』などを教え、その他一部には小謡や茶、活花などの芸事等の教授を付加する場合もあった(女子教育に関しては後編にて解説)。

しかし当時の「寺子屋」では原則としては素読を実施するだけで、その内容・意味の解釈までは教えなかったとされる(現実には師匠たちの中にも、本人もその内容を知らず、詳しくは解らなかった者もいただろう)。そして、何故ならば解釈や研究の領域は専門の学者の仕事と考えられていたからであり、医者か学者を目指す者以外には庶民階層にはまったく役立たないものであった。

※『実語教』は、平安時代末期から明治初期にかけて普及していた庶民のための教訓を中心とした初等教科書である。また『童子教(どうじきょう)』は、鎌倉時代から明治の中頃まで使用された初等教育用の教訓書。共に子供が身に付けるべき基本的な素養や、仏教的だったり儒教的な教えが盛り込まれている。

※『古状揃(こじょうぞろえ)』とは、古状または擬古状の書簡を数通または数十通ほど集めて教科書化したもので、内容的には歴史上の事件や人物を扱った。最も初期のものには『富士野往来』があり、慶安2年(1649年)には西村伝兵衛が『新板古状揃』を刊行して、この形式が定着した。

※『三字経(さんじきょう)』は、『百家姓』・『千字文』と並ぶ伝統的な中国の初等学習書である。3文字で1句とし、偶数句末で韻を踏んでいる。平易な文章を用いて一般常識や学習の重要さ、更に儒教の基本的な教えに中国の歴史などを解説している。

※四書は『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』、五経は『詩経』・『書経』・『礼記』・『易 経』・『春秋』のこと。いずれも儒教の経書の中で特に重要とされるものの総称。

※『文選』は、中国南北朝時代、南朝「梁」の昭明太子蕭統によって編纂された詩文集・詞華集である。隋・唐以前、東周から梁までの優れた文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学、特に六朝文学の研究者にとって必読書であり最重要資料の一つである。我国にも、天平期以前に渡来し、平安時代には白居易の詩文集である『白氏文集』と並んで広く愛読された。

ちなみに、上州原之郷村の筆子64名を有した「寺子屋」である『九十九庵』では、天保12年(1841年)に7歳で入門した少年・船津伊八が、12歳までに『名頭字』・『村名』・『国尽』・『年中行事』を学び、続いて『借用証文』・『御関処手形』・『田地売券』・『東海道往来』・『五人組条目』・『妙義詣』・『手紙』を学習した。12歳以降には『商売往来』を、翌年には『百姓往来』を学び、14歳の時には勉学の総仕上げとして『世話千字文』に取り組んだとされる記録があるそうだ。但し彼は、この「寺子屋」で最も多くの教育内容を履修した「寺子」であったとされるが・・・。

 

次回の第3回では、「寺子屋」における女子教育や年間の行事等について解説を試みる予定である・・・。

-終-

 

【余談-1】 【余談】 歌舞伎『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』五段続の四段目の切が『寺子屋』の名で独立して上演されることが多い。題材は菅原道真(学問の神様・天神さま)とその周辺の人物たちを扱い舞台は平安時代とされているが、四段目の切・「寺入り」の段での様子はまさしく江戸時代の「寺子屋」を描いている。またこの作品は当初は人形浄瑠璃で、延享3年(1746年)8月に大坂・竹本座で初演されて人気を呼び、翌年には江戸の肥前座でもロングランとなったもので、大坂での浄瑠璃初演の2ケ月後には京都で歌舞伎の上演も行われ、これも翌年には江戸の中村座と市村座で興行され、中村座では大当たりを取った。ちなみに、江戸肥前座での浄瑠璃初演に際しては、今で言う販促策として当時の江戸市中の「寺子屋」の師匠たちに割引券を配布したことが、大入りに繋がったとも云われている。

【余談-2】 以下は、野村吉三郎(1877年12月16日 ~ 1964年5月8日、元海軍々人で最終階級は大将。戦前に外務大臣・駐米大使を歴任、戦後も企業の経営者や政治家として活躍)の自伝に記述されている明治16年~17年頃の私塾の姿である。曰く、 「・・・同町内に在った河合という老人の教える漢学塾では、同年輩の児童たちが、意味も分からぬのに大声はり上げて素読をマル暗記でやっていたが、何しろいたずら盛りの子どもたちだから、一組が老先生の前に畏まって授業を受けていると、ほかの連中は先生の背後で木刀や竹刀を振りまわし、先生の頭や肩先へ斬りつける真似をしたり、赤んべいをしているが、耳の遠い老師はそんなことはどこ吹く風で、前に居並ぶ腕白連中が大声あげて朗読する素読を、竹の鞭を構えた泰然とした恰好で熱心に聞き入って居られた。(中略)今から想えば懐かしくもあれば、可笑しくもある寺子屋風景であった。併し、私にとってはこうした幼年時代の私塾通いが、後年に及んで大きなプラスとなった。その頃の月謝は確か二十銭ぐらいと覚えているが、この二十銭は母としては随分苦心をした金であったようだ・・・」とのことで、まるで江戸時代の「寺子屋」そのままの姿を彷彿とさせる内容だ。

【余談-3】 谷崎潤一郎(1886年7月24日 ~ 1965年7月30日、我国の著名な小説家で代表作には『痴人の愛』・『春琴抄』・『細雪』など)が自著『文章読本』で語る「寺子屋」の想い出には、「・・・昔は寺子屋で漢文の読み方を教えることを、「素読を授ける」と言いました。素読とは、講義をしないでただ音読することであります。私の少年の頃にはまだ寺子屋式の塾があって、小学校へ通う傍そこへ漢文を習いに行きましたが、先生は机の上に本を開き、棒を持って文字の上を指差しながら、朗々と読んで聞かせます。生徒はそれを熱心に聴いていて、先生が一段読み終わると、今度は自分が声を張り上げて読む。満足に読めれば次へ進む。そういう風にして外史や論語を教わったのでありまして、意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。ですが、古典の文章は大体音調が快く出来ていますから、わけが分からないながらも文句が耳に残り、自然とそれが唇に上ってきて、少年が青年になり老年になるまでの間には、折に触れ機に臨んで繰り返し思い出されますので、そのうちには意味が分かってくるようになります。古の諺に「読書百遍、意自から通ず」というのはここのことであります・・・」とあり、これもまた江戸時代の「寺子屋」の雰囲気を感じさせる体験談であろう。

【参考】 「往来物」に関して詳しいHP ⇒ 往来物倶楽部

 

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