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【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第3回 〈25JKI00〉

「寺子屋」における年中行事

「寺子屋」教育の世界にも現在の試験に類似したイベントは存在した。それは“清書(きよがき”)や“浚(さらい”)、“席書(せきがき)”などの行事である。これらはいずれも「手習い」の上達をみるもので、今日の試験の様に他の子供との(相対的な)比較をしたり客観的な評価を下す為のものではなく、成果の上がった「寺子」には褒賞(筆・墨や清書草紙、幼い子には菓子など)を与えたりして子供たちの学習意欲を高めるのが主な目的であったとされる。

“清書”は月に数回実施されるのが普通で、与えられた手本を暗書させられたものであり、直近に習った文字などを書いて師匠に見せる小テストと云った趣である。ある史料では「寺子」たちは5日乃至(ないし)は10日置きに“清書”をしたとされるが、この“清書”の審査・添削は師匠の重要な業務となっており、川柳にも「師匠様、一日釘を直してる」といったものがある。この時、師匠は“清書”を朱書で訂正したり、注意を要する部分に圏点(けんてん、強調が必要な場所に付ける点)を付したり、また評語として“大極上々吉”・“大上々吉”・“絶圭”・“大佳”・“佳佳”・“佳”、よりシンプルな表現としては“上”・“中”・“下”とか“天”・“地”・“人”などの様な段階評価を付けて弟子に返却したと云う。

“浚”は月に1回(月末が多い)や年に1回(年末に)行われ、前者を“小浚”、後者を“大浚”と呼んだ。一般的には、手本や教材を師匠に預けておいて、暗書、暗読(暗誦)する形であった。ちなみに江戸時代の川柳に「大浚小浚  手本とられて泣き浚」といったものがあり、今も昔も勉学に苦心する学童の気持ちは同じ様だ…。

※“浚”は、「おさらい」という言葉として現代でも使われている。その意味は、学んだことが確実に身につくように再びやってみる復習のことである。または 芸事の師匠が弟子を集めて教えたことを弟子に演じさせる場合を指すともされ、これは“温習”とも云う。

歌川(一勇斎)国芳の作 『幼童席書会(ようどうせきがきかい)』(弘化年間の頃)

“席書”は年に2回、4月と8月に行われた行事だが、実際には公開の父兄参観に近いかも知れない行事。師匠から(学力に応じた)お題を与えられた「寺子」たちがそれを即席に浄書しては提出し、そこに師匠が小さく評言を書き加えて教場に掲示した。その際は師弟共々に礼装(師匠は裃もしくは羽織袴や晴れ着、子供たちも身分に応じた美衣・美服を着用)して臨むという大掛かりなイベントであり、誰もが希望すれば観覧可能なものだったが、規模の大きな有名「寺子屋」の場合は関係者以外の一般の見物人も多く、これは師匠が自らの「寺子屋」を宣伝・PRする為の行事とも云えた。成績優秀者には師匠から褒美が渡され、また全てのスケジュールが済むと「寺子」たちは配られた赤飯や菓子を食したり遊戯などをして楽しんだとされる。

それから、素読の試験を“演習”と呼び、その期末試験に当たるものが“大演習”とされたとの資料もある。この試験でも、成績優秀者には師匠から褒美が与えられたと云う。

もちろん試験ばかりではなく「寺子」たちにとっては楽しい行事もあり、“書初め”や““花見”に“五節句”(人日・上巳・端午・七夕・重陽)などの一般庶民の風俗・習慣と関連したものや、「寺子屋」の守護神とされた天満天神を祭る“天神講/天神祭り”(後述)などがあった。

※“五節句”とは、我国に古来より伝わる様々な節句の内から5つを江戸時代に徳川幕府が年間の公的な行事・祝日として定めたもののことで、人日(七草)の節句、上巳(桃・雛祭)の節句、端午(菖蒲)の節句、七夕の節句、重陽(菊)の節句の五節句である。

歌川広重の作『春興手習出精双六(しゅんきょうてならいしゅっせいすごろく)』(「寺子屋」をテーマにした双六で入門、席書、褒美、罰など「寺子屋」での学習生活の他に、初歩から高等科までの教科・教程の変遷も描かれている)

“書初”は“吉書”とも称して各「寺子屋」で行われ、一般には元旦より正月5日頃までの間に実施されたが、地域によ っては年の暮に書いたところもあったとされる。この行事は子供たちには汁粉餅等が振る舞われた為に大変人気の行事であった。それから、桜の頃には“花見”を行う「寺子屋」もあったが、師匠に引率された「寺子」たちは、現在の遠足の様な気分で大人に混じって“花見”を楽しんだのである。だが人の大勢集まる行楽地で、迷子にならぬ様にと教え子を沢山引き連れた師匠の苦労が見て取れる「花の山  散るな散るなと  師匠下知」などという川柳もあったりして、今も昔も幼童を率いる先生たちの苦労は同じ様である。

また無論のこと“桃の節句”も“端午の節句”も、また“重陽(菊)の節句”も重要なイベントではあったが、五節句の中では“七夕”が最も盛大な行事であった「寺子屋」は多い。

“七夕”の前日は「寺子」全員が師匠宅に宿泊して夜を徹して語り合い、翌朝は川辺や井戸で硯を洗ったり(“硯洗い”と呼ばれる行事)、古筆で作った筏に草花を飾って流した地域もあったとされる。そして“七夕”当日は、五色の紙を短冊形などにして、これに自身の「手習い」の上達を願う言葉や師匠から授かった手本を見習った文字とか、更には師匠を頌したり讃えた文言を書き記しては竹枝に結びつけて“七夕”祭を祝ったとされる。その後、子供たちは師匠から素麺や饅頭などの土産を与えられて帰宅したが、改めて父兄が酒食物を持ち寄って師匠への謝恩の会を催した場合もあった様だ。

※“硯洗い”とは、七夕(7月7日)祭りの前夜、子供たちが習字や学問の上達を祈って硯・筆・机などを洗うことである

さて“天神講・天神祭り”については、とりわけ「寺子屋」関係者が盛大に祝った祭儀であるともされている。天満天神は平安末期には早くも書道の神様として信仰される様になっていたが、この事が「寺子屋」教育においては天満天神を「手習い」の神として尊崇する事に繋がり、やがて学問全般の神様として「寺子屋」の守護神として敬い奉られる様になっていき、「寺子」たちは天満天神を信仰して一心不乱に勉学に励めばその学業は必ず上達し、本人の人格等も向上すると信じられていた。

そして天満天神として信仰の対象となり現在は学問の神として親しまれている菅原道真の命日が2月25日であることから、毎月、この日(25日)を「寺子屋」では“天神講”と呼び休日扱いとしていた。既に述べた“花見”の遠足なども、この日に行われることが多かったと云う。また毎月25日に“天神講”の行事を行う「寺子屋」もあった様だが、一般的には年末12月と年初の1月25日に“天神講”の祭事を催していたとされる。

“天神講”では、「寺子」が食材を持ち寄って師匠の自宅に集まり食事を用意しては師弟合い揃って会食を行い、祭壇を設けては天満天神(菅原道真)の神像を掲げて御神酒・菓子・餅などを供えたり、「寺子」の書いた書を天満宮に奉納したりして「手習い」や学問全般の上達を祈った。また同時に師匠は天満天神を祀る祭壇の前に「寺子」たちを集めて、菅原道真の事績やその学徳などを話して聴かせ、更には広く忠臣・孝子などに纏わる修養講話を行ったりしたと伝わる。

※“天神講”は、1月25日に行われたとするものと2月25日に実施されたとの2説がある様だが、何れのパターンも存在し、どちらかが正しいという事ではないらしい。現在でも、福井県や富山県の一部では、この“天神講・天神祭り”が行われているが、福井県地方では男の子が生まれると最初の正月に菅公(菅原道真)の掛け軸や木像に焼きガレイ(赤いカレイが好まれるとの情報もあるが)を供え、子供の無病息災と学業成就を祈る。富山県方面でも天神様の掛け軸を掲げて鯛やカニ等の料理後に赤くなる食材と共に、ご存知・蒲鉾の鯛などを供えたりする。カレイについては、菅原道真がカレイが好物だったという俗説もあるが真偽の程は不明。また福井県地方に関しては、幕末の頃に教育熱心であった福井藩の藩主・松平春嶽が領民に天神画を祀る様に推奨し、それを富山の薬売りが他の北陸地方に広めたという説があり、石川県でも昭和30年代頃までは同様の風習があったとされる。但し、もともと金沢・前田藩の藩主である前田家も菅原氏の末裔と称していた事から菅公を敬うことに熱心であったともされ、何が本当の由来なのかは定かではない。

尚、わざわざ行事と呼ぶほどの事ではないが、夏場の早朝における“朝稽古(朝習い)”や冬場の夜間における“寒稽古(寒習い)”といった言葉も、「寺子屋」における学習活動の様子を描いた資料には散見される。

こうして、現代とは違って娯楽の少なかった江戸時代から明治期初頭において、子供たちは「寺子屋」の季節毎の行事をレクリエーションの一環として捉え、日頃は食べられない菓子や馳走を食したり、遊戯や余興に遠足などを楽しみ、“天神講”では既に卒業した先輩(兄・姉弟子)たちも参加して、さながら同窓会の様な状況となる事もあったと云う。

 

いよいよ次回の第4回にて「寺子屋」関連記事の連載は最終回となる予定であり、「寺子屋」の学費や収入・財政状況、師匠の身分やその組織・体制といった経営の実態に迫りたいと考えている…。

-終-

 

【余談-1】 幕末に黒船を率いてやって来た米国の海軍提督マシュー・ペリー(代将)は『日本遠征記』の中で、「(日本では)読み書きが普及していて、見聞を得ることに熱心である」と書いている。そして更に日本では田舎の地域にも本屋があることや、日本人の読書好きと識字率の高さに驚いたことを記している。

1848年に密入国で我国を訪れたカナダ人のラナルド・マクドナルド(スコットランド人とカナダインディアンの混血で捕鯨船プリマス号の船員であり、日本に滞在した約7ヶ月間において幕府のオランダ語通詞たちへ英語を教授した人物)も、「最上級から最下層まであらゆる階級の男、女、子供…は紙と筆と墨を携帯しているか、肌身離さず持っている。すべての人が読み書きの教育を受けている…」として、幕末日本の庶民の多くが文字を読み、また書くことが出来たことに驚嘆している。

また“第一次東禅寺事件”で負傷・帰国した英国公使館の一等書記官であったローレンス・オリファントも、当時の日本人が「手紙による意思伝達は、わが国(英国)におけるよりも広く行われている」と述べており、「彼らはまた、まるで郵便制の楽しみに耽けっているかのように、たがいに短い手紙を書くことが好きである」として、日本人の識字率の高さと手紙の活用を評価している。

また、既述のラインホルト・ヴェルナーも、「…(日本の)民衆教育についてわれわれが観察したところによれば、読み書きが全然できない文盲は、全体の1%にすぎない。世界の他のどこの国が、自国についてこのようなことを主張できようか? 」と書き残している。

文久元年(1861年)に来日したロシア正教会の宣教師で日本正教会の創建者でもあるニコライ(本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)は、「(日本では)国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育がゆきわたっている…(中略)…どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他の主だった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない…(中略)…読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」と雑誌『ロシア報知』で語った(ニコライ著『ニコライの見た幕末日本』より)。

明治6年(1873年)から明治11年(1878年)まで文部省の教育顧問だったアメリカ人ダビッド・モルレー(デービッド・マレーとも)は明治初期の学制の制定・改正に強い影響を与えた人物だが、「日本の「寺子屋」は廃止すべきではない。教育の為にはこれほど有益な場所はない」と称賛したとされ、それは彼が「寺子屋」教育の多様性を尊重して一人一人の生徒の個性を伸ばす姿勢が、米国人が考える教育の理想像に近いと思ったからだとされている。

【余談-2】江戸時代において我国の船舶が遭難して外国船に救助された時、乗組みの全員が読み書きが出来た事に外国船の船員が驚いたという記録が残っている。当時、諸外国では下級の船員はほとんどが読み書きなどは出来なかったからであるが、逆に我国では非常に多くの船員が読み書きの能力を身に付けていた。

 

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