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【江戸時代を学ぶ】 「寺子屋」の実態 第4回(最終回) 〈25JKI00〉

「寺子屋」の学費、そしてその経営の実態

入学金(「束脩」)や授業料(「謝儀」)などの学費については特に定めはなく、また生徒毎に一律でもなく、各々の生徒の親が支払える額を支払う形(米、酒、野菜など物納の場合もあり)であった。平均的な入門料の額は、生徒の親がその師匠にふさわしい金額を学友の両親や周辺・近所の人々などから聞いて判断した模様であり、通常は200文~300文、余裕がある家であれば2朱(500文)、裕福な商家などは1分(1,000文)を包んだとも云われる。

※「束脩(そくしゅう)」とは、本来は束ねた干し肉の意。古代の中国において、師に入門する時などの贈り物とした。これが転じて、学校・塾などに入門する場合に持参する謝礼のことになる。江戸期の「寺子屋」への入門時には、扇子に金銭を添えたり、品物などを加えたりと様々である。

また盆暮れや五節句などに授業料に当たる「謝儀」として100文から1分程度を各親が自らの経済的能力に応じて納めたとされ、更に6月の畳替えの費用「畳料」が200文~300文程度、加えて冬季の炭代などの「炭料」も同額の負担が(10月の支払いとして)発生したが、これらの費用を地域の「講」が支援したという記録もある。

※「謝儀(しゃぎ)」は年に数回(5回との説もある)、それとは別に「寺子」は毎月の月末に「月並銭」(1人当たり24文~48文程度)を支払ったとの史料もある。

※「講」とは、宗教上・経済上その他の目的のもとに集まった人々が結成した組織のことである。また特定の職業の繁盛を期する為の、その職業の守護神を祀る同業者仲間の講も多い。 しかしここでの「講」は、同業者間や同じ地域に住む住人の間による相互扶助的性格のもので、互いに金品の融通をはかる経済的な「講」のことであり、「頼母子(たのもし)」・「無尽(むじん)」・「模合 (もやい)」などと呼ばれた。

※「往来物」等の教科書などは寺子屋の備品を使うが、文机は親が誂えて持参したとの説もある(既述)。

※その他にも、「書初の礼」・「席書の礼」・「盆暮の礼」や寺子屋建物の増改築費用なども「寺子」側が資力に応じて負担した。また「盆暮の礼」では、砂糖やそうめん・餅などの現物納品が多かった様である。

※「寺子」の負担分には学用品の購入もあった。安政年間だと天神机と硯箱が250文、筆は1本で4文、墨1個が12文、半紙1帖が8文で合計で674文が必要であったとの記録もある。

※江戸時代後期の岩手地方では、授業料として凡そ月額当たり30文(後には30銭)、年額では白米5升か金1分が通例、節句や盆には別途に現金33文か餅類や酒を贈る習わしがあり、年末には1貫文か白米1斗から1斗5升を贈り、入門時には濁酒1升と餅を持参したとの記録がある。

 

具体的な「寺子屋」、つまり師匠側の収入としては、江戸時代の中・後期における直接的な金銭に当て嵌めて計算してみると、課金対象の生徒が60人(毎日登校する者は30~50人くらい)として授業料の平均300文×60人×3回で54,000文、その他の収入計が6,000文として合計60,000文となり、これは約15両(1両=4,000文)に相当する。現在の貨幣価値に換算して60万円~75万円程度(米価換算)であろうか。(貨幣の換算結果は、時期と方法により多岐に分かれることに留意、また1両を6,000文とする場合もあり)

但し、家賃や生活必需品の物価が現在に比べて大幅に安価であった当時の状況を鑑みると、実際の生活での使い出は現代の300万円~400万円以上の価値の様に思える。また人件費を目安に換算した場合には1両が20万円~30万円に値するとの結果も出ているので、この場合も同様の金銭感覚に落ち着く。だが幕末にはインフレが激しく、上記の金額相場も江戸時代の中・後期に比べて10倍くらいとなっていただろうと考えられる。

※嘉永・安政年間(1848年~1860年)において、200人の「寺子」を持つ某師匠の年間現金収入は金14両であったとの記録が残っているそうである。金銭以外での所得も多かったと考えられるが、やはりこの程度の現金収入で何とか生活が可能であったのだろうと推測するしかない…。

一般的に「寺子屋」を主宰する師匠/教師は、敬学思想に基づいて「学は金銭で売り買いするもの」とは考えずに、師匠という社会的な地位に誇りを持っており、金銭について細かい要求をほとんど行わなかったとされる。その為に総じて「寺子屋」経営は儲かるものではなく、金銭的には苦しい事業であった。もちろん前編でも述べた通り「寺子屋」が本業ではない場合や、逆のパターンとして他に副業を有している師匠も多く存在したと考えられる。「寺子屋」だけで生計を営むには、裕福な生徒を多数抱えるか、非常に多くの弟子を持つしかなかっただろう。

また、確かに授業の対価は金銭ばかりではなく季節の付け届け品や各種の贈答品などもあったし、酒食などによる接待の場合もあった。だがしかし物質的な答礼よりも師匠を慕う気持ち・敬う精神性が大切とされ、ほとんどの場合においては、生徒たちは己の師匠を自身の両親よりも尊敬し信頼したとされる。

こうして、何れの師匠たちも貧しいながらも一生懸命に弟子たちを指導したとされのだ。そして彼ら師匠たちは単に上辺の知識を授けるだけではなく、併せて当時の思想・哲学や道徳律に基づいた“人格教育”を行っており、その意味でも単なる教師ではなく弟子である子供らの“人生の師”でもあったのである。

ちなみに「筆子塚」というものがあるが、これは「寺子屋」の亡き師匠を祀る塚である。世話になった「寺子屋」の師匠が亡くなった時、教え子たちが自費を出し合って建てた供養塔のことだ。「寺子屋」の師匠は、その生徒たちにとっては生涯の師であり、人生の模範となっていたのである。だからこそ、やがて大人になった生徒たちが亡き師匠への想いと感謝を込めて「筆子塚」を建立して、その遺徳を偲んだのである。

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